五王戦国志8 天壌篇 井上祐美子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)琅《ろう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)〈衛《えい》〉王|耿無影《こうむえい》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地から1字上げ]井上祐美子 ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/08_000.jpg)入る] 〈カバー〉 覇王の星を手中にせんとした〈衛《えい》〉王|耿無影《こうむえい》のもとに騎馬国〈琅《ろう》〉より突然の宣戦布告 優勢誇る衛軍の七万に対し手勢約半分の琅軍は、しかし慧眼《けいがん》の謀士と旧王朝の末裔《まつえい》、そして異民族にして傭兵《ようへい》出身の王が統率された兵と知力と果断さで挑む 〈魁《かい》〉王朝の崩壊から八年—— 五人の王の時代は掉尾《ちょうび》の一戦を迎える COMMENT 井上祐美子 Yumiko Inoue とりあえず、完結いたしました。まだ物語の中では、解決していないことも残っていますが、これから先は淑夜たちに任せましょう。長い間、つきあってくれてありがとう、このあともがんばってと、登場人物たちにまず、いいたいと思います。 PROFILE 1958年11月生まれ。兵庫県姫路市出身。中国の歴史を素材にした小説で独自の世界を切りひらく。主著に『非花(はなにあらず)』(小社刊)、『五王戦国志』(C★NOVELSファンタジア)、『紅顔』(講談社)、『桃夭記』『柳絮』(徳間書店)、『長安異神伝』『女将軍伝』(徳間文庫)など。 カバーイラスト/小林智美 カバーデザイン/森 木の実(12 to 12) [#改ページ] [#挿絵(img/08_001.jpg)入る]  五王戦国志8 天壌篇 [#地から1字上げ]井上祐美子 [#地から1字上げ]中央公論社 [#地から1字上げ]C★NOVELS Fantasia [#地から1字上げ]挿画 小林智美   目  次   序  第一章 疾風怒濤  第二章 燎原の火  第三章 五城策  第四章 興亡賦  終 章 天涯地角   あとがき [#改ページ]  主な登場人物 耿淑夜《こうしゅくや》 [#ここから3字下げ] 一族の仇《かたき》である堂兄《どうけい》・無影の暗殺に失敗し逃亡中、羅旋にひろわれ〈奎《けい》〉軍に加わる。謀士《ぼうし》として〈衛《えい》〉〈征《せい》〉に対するが、義京《ぎきょう》の乱後、羅旋と袂《たもと》をわかち大牙とともに〈容《よう》〉に亡命。下級の位に就きつつ、大牙を支え〈奎〉の再興を志したが、〈琅《ろう》〉に敗北。羅旋に乞われ〈琅〉の臣となる。 [#ここで字下げ終わり] 赫羅旋《かくらせん》 [#ここから3字下げ] 西方の戎《じゅう》族出身。元〈魁《かい》〉の戎華《じゅうか》将軍・赫延射《かくえんや》の子。豪放磊落で胆力にすぐれる。侠《きょう》の集団を率いて〈奎《けい》〉軍に加わったが義京の乱で敗走、西方に逃れた。居を定めた辺境国〈琅〉の内乱で藺如白《りんじょはく》を助けその義子となり、如白の死後〈琅〉の五相に推され王となる。 [#ここで字下げ終わり] 段大牙《だんたいが》 [#ここから3字下げ] 〈奎《けい》〉伯国の世嗣として〈魁〉王朝の秩序を守らんと挙兵。 〈衛《えい》〉〈征《せい》〉と対峙中に王都義京で太宰・子懐《しかい》が〈魁〉王を弑逆《しいぎゃく》したため敗走し、父と兄そして封国を失った。〈容〉に亡命後、北方諸国連合の王に推戴《すいたい》され〈奎〉の再興を志すが〈琅〉と戦闘の末、敗れて西域に流罪となった。羅旋の説得を受け、〈奎〉の遺臣を率いて〈琅〉軍に加わる。 [#ここで字下げ終わり] 揺《よう》 珠《しゅ》 [#ここから3字下げ] 嬰児のころに〈魁〉の王太孫《おうたいそん》の妃となるが死別。義京の乱後〈琅〉に移る。兄である元〈琅〉公|藺孟琥《りんもうこ》は病死、伯父の前〈琅〉公如白も暗殺され、〈魁〉〈琅〉両王室の唯一の正統となった。 [#ここで字下げ終わり] 苳《とう》 児《じ》 [#ここから3字下げ] 段大牙の兄・士羽《しう》の忘れ形見。〈琅〉公のもとに預けられている。聡い子で、未来を予言する不思議な力を持つ。 [#ここで字下げ終わり] 耿無影《こうむえい》 [#ここから3字下げ] 淑夜の堂兄。主君を弑逆《しいぎゃく》、己の一族をも滅ぼして〈衛〉の公位を簒奪《さんだつ》した。性、狷介《けんかい》だが、怜悧な手腕で〈征〉に次ぐ南方の大国〈衛〉を能《よ》く治め、中原の制覇に野心を燃やす。義京の乱後、王を名乗る。 [#ここで字下げ終わり] |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]連姫《しんれんき》 [#ここから3字下げ] 無影・淑夜の幼なじみにして無影の唯一人の愛妾。美女の誉れ高いが、無影には固く心を閉ざしている。 [#ここで字下げ終わり] 尤暁華《ゆうぎょうか》 [#ここから3字下げ] 中原屈指の富商・尤家の女当主。〈魁〉の王都義京では、女ながら大国を相手に商売をとりしきる一方、段大牙や赫羅旋を背後から援助していた。義京の乱で〈魁〉が滅亡してのち、無影と結び〈衛〉に拠点を移した。中原全土に交易網をめぐらす。 [#ここで字下げ終わり] 壮棄才《そうきさい》 [#ここから3字下げ] 羅旋の謀士として長年、行動をともにする。無口で無表情だが切れ者。 [#ここで字下げ終わり] 魚《ぎょ》 佩《はい》 [#ここから3字下げ] 〈魁〉王朝の滅亡を仕掛けた父・支吾《しご》急逝のため十二歳の若さで東方の大国〈征〉の王となる。かつての〈魁〉領、〈奎〉領、〈容〉領を包括する版図は中原最大。 [#ここで字下げ終わり] 禽不理《きんふり》 [#ここから3字下げ] 〈征〉の太宰にして名将軍。代々〈征〉に仕えた旧家の出。 [#ここで字下げ終わり] 漆離伯要《しつりはくよう》 [#ここから3字下げ] 礼学を修めた〈征〉の謀士。魚佩の学問上の師でもあり、支吾亡き後、権力を手中にしたが謀略に失敗。国を出て〈衛〉の耿無影のもとに身を寄せる。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#挿絵(img/08_006.png)入る]  五王戦国志8 天壌篇      序  五王《ごおう》の数え方には、異同がある。  最初に〈魁《かい》〉の衷王《ちゅうおう》を数え、〈征《せい》〉の魚支吾《ぎょしご》、〈奎《けい》〉の段大牙《だんたいが》、〈衛《えい》〉の耿無影《こうむえい》の三人に、〈琅《ろう》〉の藺如白《りんじょはく》を加える説と、衷王を省《はぶ》いた四人に、〈琅〉の赫羅旋《かくらせん》を入れる説である。後説は、〈魁〉の衷王は〈魁〉の最後の王であり、新しい時代の人物には数えられないといい、前説は赫羅旋を五王時代の次の時代の人物と位置づける。  ともあれ、戎族《じゅうぞく》の傭兵《ようへい》出身の赫羅旋はついに、〈琅〉王の位に就《つ》いた。即位式もなく、宣言もなく、ただ、〈琅〉の五相の間で暫定的《ざんていてき》に承認された、臨時の王だったが、彼ほど人望を集めた王も少なかったのではなかろうか。  赫羅旋は異民族の暮らしと、庶人《しょじん》の生活を体験している。それは、人を受け入れる度量と、果断さをもちあわせていることであり、人の気持ちを推量できることでもあった。  傭車《ようしゃ》として働いていた頃、〈坤《こん》〉の地のほとんどへ実際に足を運んだ経験もある。彼ほど、〈坤〉という国を、その目と耳で知っている者も、珍しかったのはではないだろうか。  中原の基準からすれば、型破りな存在ではあったが、それでも〈琅〉の人間は赫羅旋を支持し、他国は〈琅〉の前に膝《ひざ》を屈《くっ》したのだ。  耿無影の弱点は、羅旋の長所の裏返しだった。  彼は不遇《ふぐう》だったとはいえ、士大夫《したいふ》の家の裔《すえ》として育った。食うや食わずの生活など、想像はできても、実感に乏《とぼ》しかったことは事実だ。自然、人に親身になって接することはむずかしくなる道理である。  また、彼は頭が切れすぎた。これは、無影の不幸と断言してもよい。自分がすぐに理解できることが、他人には難しいという事実が、無影には納得できなかったのだ。  生来、あまり口数の多い方ではなかった無影はそのために、人々から孤立した。他人を理解しようとせず、人に理解してもらおうとも思わなかった。  耿淑夜《こうしゅくや》が側《そば》にいれば、彼が緩衝材《かんしょうざい》役となって、不幸は防げたかもしれないという意見もある。だが、それには絶対の保証はない。淑夜が側近《そっきん》として、永遠に無影に追従《ついじゅう》していたかどうかは疑問だからだ。 〈衛〉にいた頃は、耿淑夜はただおとなしいだけの少年だったという。だが、さまざまな経験を積むことで大きく成長した。彼が無影の側で実際の国政を見聞きしたとすれば、やはり彼なりの考えを持つようになったのではないだろうか。それが、不幸な結果にならなかったという保証は、どこにもない。  結果からいえば、耿淑夜は赫羅旋という漢《おとこ》の下でこそ、最大限に腕をふるえた。段大牙にしろ、〈琅〉の他の四相にしろ、羅旋の下でなければ、その地位と生命をまっとうすることは難しかっただろう。  とはいえ、耿無影が暴政者であったわけではない。彼の構想を、耿淑夜が後に改良をくわえて採用した場合もある。両者の違いは、無影は自分を含めて人を信じず、羅旋は敵でさえ信頼し、敬意をはらいさえした点に尽きるといっても、過言《かごん》ではない。  この時代は、模索《もさく》の時代でもあった。古い国の形が崩れた後に、どんな新しい時代を築くのか——。武力の面での勝利もさることながら、その構想を、どこよりもはっきりと持っていた国が最終的に勝利したのは、当然だったのかもしれない。  十年弱という短い時間ではあったが、五人の王が興亡を繰り返したこの時代を、後に五王時代と呼ぶようになる。最初にそう呼んだのは、耿淑夜だといわれているが、詳しい話はすでに失われて久しい。 [#改ページ]  第一章————————疾風怒濤      (一)  犂堡《れいほ》という邑《むら》は、〈衛《えい》〉の北端に位置していた。そこからすぐ北は、〈衛〉と旧・〈魁《かい》〉領をへだてる山地となり、小商人たちが利用する細い道がその中へと延びていた。  その早朝、犂堡の者たちは鈍《にぶ》い地鳴りのような音で目が醒《さ》めた。「堡《ほ》」という名のとおり、邑全体を低い土塁《どるい》で囲んだだけの半農、半分は山仕事で生計をたてる小さな邑は、外敵に対して、何のそなえもしていなかった。  犂堡は北を国境に接してはいるが、東西の距離からいえば、〈衛〉の国のほぼ中央にあり、山を越えてこないかぎり外敵に襲われる心配は少なかったからだ。  以前は、国内の盗賊に悩まされたこともあるが、耿無影《こうむえい》が国主になってからは、厳罰《げんばつ》主義で臨んだこともあって、その害もぴたりとおさまり、彼らは安眠をむさぼっていたのだ。  やってきたのは、たくましい黒馬に乗った漢《おとこ》を中心とした、二十人ほどの騎馬《きば》の人間だった。堡の背後に広がる林の中から、ばらばらと現れるや、人数こそ少ないが剣や戈《ほこ》を光らせた漢たちは、あっという間にこの小さな邑を制圧してしまった。 「戎族《じゅうぞく》……?」  一団の主らしい漢の前にひきだされた邑長《むらおさ》は、漢の顔つきを見るなり口ばしり、あわててわれとわが口を押さえた。彫りの深い、端正な顔立ちと茶色がかった髪、そして緑色に底光りする両眼が、その漢の出自《しゅつじ》を端的《たんてき》に示していた。  戎族は、このあたりでは盗賊《とうぞく》の代名詞だった。実際にめったに襲われたことがないため、かえって戎族に関して悪い話ばかりが伝わっており、それが侮蔑《ぶべつ》と恐怖《きょうふ》の対象になっていたのだ。  だが、その長身の戎族は動じたようすもなく、邑長を翠《みどり》色の目で見すえると、 「この邑をしばらく借りる。抵抗しなければ、こちらも危害は加えん。ただし、邑人の出入りは一切禁じる。俺たちの存在が近隣の邑へ知れたら、おまえたちを殺さねばならなくなるからな」 「へ——なにもいたしません。どうぞ、命ばかりは」 「おとなしくしていれば、何もしないといっている。人と待ち合わせをしているだけだ。合流すれば、すぐに立ち去る。それから、食料と水を供出してもらうぞ」  漢は裾《すそ》の短い上衣と袴《こ》、それに革を重ねあわせた軽い胴甲《どうこう》を身につけていた。手にも、革の籠手《こて》をつけ、革の長靴《ちょうか》を履き、腰には長い剣が下がっていた。  あまり見たことのない姿だが、戦支度の一種だとは見当がついた。  漢の厚い胸板とのびやかな手足は、きたえぬかれ、少しの無駄もない。あらためてみると、彫りの深い顔立ちは、茫洋《ぼうよう》としたところもあるがなかなかの好男子といってよい。年格好は三十歳前後か。  風格がどことなくあるような気もするが、それより幾度となく戦陣の中をくぐりぬけてきたらしい、剣呑《けんのん》さの方が邑長には目についた。怒らせれば、何をされるかわからない。そんな恐怖が、先にたって、 「へい。いくらでも、いくらでもどうぞ」  蟹《かに》のように両腕を張って、白髪頭を地面にすりつける邑長に、漢は苦笑したようだ。 「そう、こわがるな、といっても無理か」  つぶやくと、ふい、といってしまった。  その後につづく漢たちが、黒髪と黒い目の中原の人間であることに、邑長は気づいた。よく見れば、首領をのぞいて全員が中原の人間だ。それなのに、全員が馬に乗ることに邑長はおどろいた。馬に乗るのは、戎族だけだと思っていたのだ。しかも、その馬に乗る漢たちが、戎族の首領《しゅりょう》を、 「陛下」  と、呼んだのには、卒倒《そっとう》しそうなほど驚いた。  戎族が、王だと。  いや、戎族が中原の真似をして、戎族の王を僭称《せんしょう》する者がいても不思議はないが、それならなぜ、中原の人間が従っているのだろう。それに、戎族の漢は、待ち合わせといったが、いったい何を待っているのだろう。  邑長の最後の疑問は、すぐに回答を与えられた。その日、その直後から三三五五、十人、二十人と組になった男たちが、このちいさな邑をめざして姿をあらわしたからだ。  彼らが来る方向は、まちまちだったが、おおむね北から北西の方角から現れるようだった。 「——戎族なら、西から来るものじゃなかろうか」 「北から来るということは、〈魁〉の人間かね」 「〈魁〉はもうない。今、義京《ぎきょう》を占領《せんりょう》しているのは〈琅《ろう》〉だそうだよ」 「とすると——」  邑長と邑の男たちは自宅を追い出され、数軒の家に分散して、おしこめられている。女子供は別の場所に、こちらはまとめて軟禁《なんきん》されているが、今のところ、危害は加えられていないようだった。戎族の漢は約束は守るようだったが、それがいつまで続くかはわからない。  邑長の周囲では、侵入者たちの素姓《すじょう》の詮索《せんさく》が第一になったのは自然ななりゆきだった。 「あれは、〈琅〉の王さまか」 「まさか。いくら〈琅〉が西の草原に近いからといって」  だいいち、兵たちの先頭にたってはたらく王など、見たことがない。 「では、あいつはなんなんだ」  彼らは、〈琅〉王・藺如白《りんじょはく》が急逝《きゅうせい》したことなど、知りようがない。むろん、如白の容貌《ようぼう》も見たことがない。自国の王の顔すら見たことのないような、辺地なのだ。だから、前王もまた、戎族の顔立ちをもっていたのだと聞かされても、信じなかっただろう。  用件があって、たびたび呼び出される邑長は、集まってくる男たちの数と、その雑多《ざった》さにただただ、驚くばかりだった。  馬に乗る者もいれば、徒歩で来る者もある。中原の男もいれば、あきらかに戎族とわかる者もいる。無頼《ぶらい》、侠《きょう》といったいかにも危険そうな男たちもいれば、どことなく垢抜《あかぬ》けない、土臭い農民風の若者もいる。陰気そうな壮年の男がいるかと思えば、あきらかに士大夫《したいふ》の子弟《してい》と思われる者もいる。  邑長が一番おどろいたのは、白い衣をまとった女が、美しい騅《あしげ》に乗り、大勢に護衛されて到着した時だった。  頭からすっぽり、羅《ら》の衣をかぶってはいたが、二十歳そこそこの若い女とすぐ知れた。 「玉公主《ぎょくこうしゅ》、よくぞ無事で」  最初に到着した戎族の漢が、神妙な態度で女を出迎えに出てきた。 「羅旋《らせん》さまこそ、お早いご到着でしたのね」 「そちらは、もうすこしかかるかと思っていた。淑夜《しゅくや》、ご苦労だったな」  女のかたわらに首を並べた馬から、青年が降りるところだった。見たところ、日に灼《や》けてはいるが、どこぞの名家の公子ではないかと思うような、ほっそりと端正な姿の青年だった。しかも、降りたったところをみると、足が片方、悪いらしく、歩くとかすかにひきずっていた。  淑夜と呼ばれた青年は、それでもにこりと笑いながら、 「一度、逆方向にたどった道ですからね」  そして、もう一度、意味ありげに笑った。 [#挿絵(img/08_017.png)入る]  陛下、羅旋と呼ばれている漢は、騅の銜《くつわ》をしっかりと押さえているだけで、女を馬から助け降ろそうとはしない。どうするのかと見ていると、足の悪い青年の方が、女に手をさしのべた。女も、ためらわずにするりと青年の両腕の中にすべり降りた。  絵画か、幻のように美しい一瞬だった。 「超光《ちょうこう》を、揺珠《ようしゅ》どのに貸したのだな」 「ええ、超光なら、万が一のことがあっても、揺珠どのを守ってくれますから。私も、他の馬に慣れてきましたしね」  青年は、女をそっと地面におろしながら、笑みを絶やさない。 「それに、五叟《ごそう》先生とおふたりを乗せて、強行軍《きょうこうぐん》のできる馬といったら、超光しかありませんでしたから」 「そういえば、五叟の爺《じい》さんはどうした。落としてきたのか」 「まさか。ついさっき、林の中で突然、降ろせというので——。ああ、来ましたよ」  林の下草を分けて、小柄《こがら》な老人がこちらへむかって歩いてくるところだった。 「どうした、五叟!」  羅旋とよばれた戎族の漢は、大声で怒鳴《どな》る。老人もその場から、負けじと、 「薬草を採っておった!」  叫びかえしてくる。  小柄な、異相の老人だった。見たところ、老人の邑長よりもさらに高齢なのに、仕草はきびきびとしていて、あっという間に近くまで来ると、 「ほれ、珍しい薬草じゃ。土地の者でも、これの効能《こうのう》は知らぬじゃろう」  邑長の前にさしだした草は、林の下草としてよく見かけるものだった。珍しいものではない。けげんそうな邑長の顔に、異相の老人は、 「これは、すりつぶして傷につけると化膿《かのう》を防ぐ。油と混ぜて軟膏《なんこう》にしておくと、保存もきく。羅旋——いや、こういうことは、おまえさんじゃな、淑夜。手のすいている者で、この草をすこし集めさせておくとよい。そうじゃ、そこの人、処方《しょほう》を教えて進ぜるから、あとで儂《わし》のとこへ来なされ」  邑長を、土地の者と見て、そんなことをいう。 「どうせ、食料だのなんだのの代価を払う気はないのであろう。薬の処方は、宿代がわりぐらいにはなろうさ」  と、嫌味《いやみ》まじりに、戎族をにらみあげるのには、邑長の方がはらはらした。だが、戎族の漢は、ふんと鼻先で笑うと、 「好きにしろ」  鷹揚《おうよう》に告げて、 「淑夜、玉公主の宿を用意してある。邑長に案内させるから、早く休んでもらえ」 「羅旋さま、わたくしは、特別扱いは——」 「といって、青天井《あおてんじょう》で寝《やす》むわけにもいくまい。そのうち、天幕《てんまく》を調達するから、それまでは我慢《がまん》していただこう。淑夜」 「はい」  と、青年が微笑して、女の手をとった。青年にうながされて、邑長は背後を気にしながらも自分の家へと道をたどりはじめる。背後では、またひと組、二十人ほどの男たちが到着したようだった。 「あの——御身《おんみ》さまがたは、いったい」  青年の物腰が、他の漢たちとくらべて目立っておだやかなのを見てとって、邑長は今まで呑みこんでいた疑問を、思いきってぶつけてみた。万が一、怒らせても、公主と呼ばれるこの女性がいれば、きっとなだめてくれるだろうとふんだのだ。  案《あん》の定《じょう》、青年は鋭い目をしたが、 「あまり、我々と関わりにならない方がよいと思います」  そのことばづかいが、丁寧なのに邑長はほっとする。 「あの、戦をなさるんで……?」 「そういうことになります。でも、ここが戦場になることは、ないでしょうから」 「だけども——」 「何があっても、知らぬ存ぜぬでいた方が身のためです。我々が敗《やぶ》れた時、あなた方が協力していたことが知れれば、耿無影は許さないでしょうから」 「耿無影……?」  王の名を平然《へいぜん》と口に出すこの青年に、邑長は奇妙な感覚を感じていた。国主の顔など見たこともないが、青年の口調にはどこか、親しい者を呼ぶような響きがこもっていたのだ。国主と、この青年は縁《えん》続きかなにかなのではないか。  だが、口に出して訊《き》くわけにいかず、青年も女も以後は堅く口を閉ざしてしまった。邑長は疑問を腹いっぱいにかかえたまま、邑人たちのもとへもどっていった。  邑長の姿が完全に視界から消えてから、淑夜は嘆息《たんそく》しながら、 「八年ぶりです」  つぶやいた。  不思議そうなおももちで周囲の風景を見る淑夜に、揺珠は目を見はった。  たしかにここは淑夜の故国《ここく》だが、それ以上の感慨《かんがい》がその声にふくまれているように思えたからだ。 「昔——八年前、私は、この邑から山を越えていったんです」 「それは——あの時の?」  揺珠の黒目がちな静かな瞳の中で、淑夜のおだやかな微笑がうなずいた。 「夜でしたから、風景は見えませんでしたが。邑の内にしのびこんで、家畜小屋の水を盗み飲みしながら隠れていました。夜が明ける前に、あの道をたどって山を越えました」  今は笑って簡単にいうが、当時の淑夜の緊張と絶望には、想像を絶するものがあったはずだ。左足を完全に悪化させてしまったのは、その山越えの最中、崖《がけ》から転落したためだが、その前から彼の身体は傷だらけだったはずだ。その身体で、暗闇《くらやみ》の中、獣も出る山中へ単身、這《は》いのぼっていく淑夜の姿が、一瞬、目に見えるような気がして、揺珠の瞳がうるんだ。  その時の淑夜の怒りや絶望、身体と精神と、双方の痛みがこの地に立つと、わがことのように胸に迫ってきたのだ。 「申しわけない。恐がらせてしまいましたか」  揺珠の狼狽《ろうばい》の原因をとりちがえた淑夜が、あわてて謝った。 「いいえ。ただ、ご苦労なさったのだなと思っただけ」 「苦労、ですか」  軽い苦笑が、淑夜の唇《くち》もとにうかんだ。 「苦労をしたのは、私ひとりではないはずです。羅旋も大牙《たいが》も、そしてたぶん」  そこで、ためらうようにことばを少し切ってから、 「無影も、苦しんだり悩んだりしたはずです。この八年間というもの、この〈坤《こん》〉の地で懸命に生きる努力をしなかった者は、数少ないはずですよ」 「ほんとうに、そう思われますの?」  確かめるように、揺珠がたずねた。淑夜は終始、おだやかな微笑をたやすことがない。 「無影に対しての恨みつらみは、もうありませんよ」 「ほんとうに?」  揺珠の不安は、なかなか去らない。  淑夜が〈琅〉の人間になってからこちら、私怨《しえん》にとらわれた言動はいっさいなかった。だが、だからといってまったく恨みを忘れたといい切れるものだろうか。たとえ忘れていたとしても、故国にもどったことで再燃しない保証があるのだろうか。そもそも、〈征〉と対峙《たいじ》していたのが突如、手を結んで〈衛〉を攻めることになったのだ。この事態の急転を、淑夜が望んでいなかったとはだれにも言い切れるまい。  人を恨む感情は、両刃《もろは》の剣のようなもので、自分をも破滅させることを、揺珠は直感的に知っていた。揺珠は彼を破滅させたくはなかった。 「今まで、だれにもいわなかったことがひとつ、あります」  揺珠の心配を知ってか知らずか、淑夜はやわらかな微笑をうかべて話しだした。 「義京に逃げこんだものの、知人に裏切られて人が信用できなくなっていた時でした。ある人の姿が、私をどん底から救いあげてくれました」 「ある人?」 「最初、会った時、妹がよみがえってきたのかと思いました。いえ、姿も歳も、似ているところはまったくなかった。ただ、死んだ妹のかわりに、その人が私の前に現れたような気がしただけです」  男兄弟とは疎遠《そえん》だったが、おとなしい少年だった淑夜は妹たちには慕《した》われていた。一族が滅ぼされた時、彼が〈衛〉国内にいたとしても、妹たちを守りきれたかどうかわからない。だが、守ってやれなかったという後悔だけを、身体の奥深くに刻んだ淑夜にとってその少女は、今度はかならず守り通さなければならない妹に思えたのだ——。 「それは」  それとなく気づいた揺珠の頬が、わずかに上気する。 「ええ」  と、淑夜は、揺珠にむかって、きっぱりとうなずいてみせた。 「無礼だと思われたなら、許してください。私の一方的な思いこみです。技術も学問も門閥《もんばつ》もないどころか、懸賞《けんしょう》のかかったお尋ね者が、〈魁〉の公主を守るなど、とんでもない思いあがりでした。実際に守れるはずもありませんでしたが、ただ、そう思うことで、私はどこかで救われたのだと思います」  そういえば淑夜は、段《だん》大牙の姪《めい》の苳児《とうじ》を大切に扱い、彼女を危険な目に合わせないために心を砕いていたという。「守るべき妹」の存在が、〈容〉で苦しい立場にいた淑夜を支えていたともいえる。  無影への憎悪《ぞうお》は、淑夜の他の感情を殺してしまっていた。それを、揺珠への思いがよみがえらせたのだ。 「もっとも、それに気づいたのは、廃墟になった寿夢宮《じゅぼうきゅう》であなたの絵姿をみつけた時でした。あの絵を、なんとしてでもお返ししようと思った時、それがどれほど大事なことだったか気がつきました。もしも——無影が〈衛〉を奪うことがなかったら、私はあなたの影を見ることもなかった。もしも〈魁〉が滅ばなかったら——」 「わたくしは〈琅〉に帰ることもなく、おそらく一生、寿夢宮に閉じこめられたまま朽ちていたでしょう」  義京の乱で〈魁〉が滅んだ時、彼女を救いだしに来てくれた人の中にも、淑夜はいた。揺珠は、おそらく肌身離さずもっていたのだろう、一枚の帛《きぬ》を取り出した。そこに描かれているのは、八年前の揺珠自身。描いたのは、亡き衷王だ。寿夢宮の梁《はり》の上に隠されていたものを、淑夜と大牙が見つけ出した。  北方諸国が滅んだ時、この絵を保管していたのは淑夜だ。正確にいえば、愛馬の超光《ちょうこう》の鞍《くら》の中に隠していたのだ。自分たちの身に何かあっても、超光に指示して放ってやれば、自力で〈琅〉へたどりつく。〈琅〉には、超光の元の主人である羅旋がいるから、いずれ鞍の中身にも気づくだろう——。  結局、非常手段はとらずにすんだ。  淑夜は超光と同時に羅旋の手の中に落ち、事態がおちついた後、絵は淑夜自身の手でとりだされたからだ。  揺珠がその絵を受けとった時の顔を、淑夜は忘れられない。揺珠にとってもそれは同様だった。彼女にとって淑夜はそれまで、なつかしい人ではあっても、特別な存在と意識してはいなかったのだが、 「あのまま、朽《く》ち果《は》てるのだと、自分でも信じこんでいました。でも、そうではないのだと——人の生き方は変わるのだと、この絵を見た時に思いました。この絵の中のわたくしと、絵を見た時のわたくしとの間にどれだけの距離がひらいたか、その時に気がつきました。おのれの道は、女であってもおのれで切り開かなければならないのだと、気がつきました。馬を習ったのは、それからのこと。おかげで、こうして戦にまで同行できました。あなたの側にいることが、できました」  けっして楽でない山越えを、弱音《よわね》ひとつ吐かずにやってのけた娘は、そういってしずかに微笑した。 「救われたのは、わたくしも同じですわ、淑夜さま。そして、わたくしは、王族という立場からも無縁になりました。もう、どこへ行くのも自由です」  淑夜は、一瞬の何分の一かをためらった。だが、その右手はまっすぐ揺珠の方へさしのべられていた。 「守らせていただけますか、揺珠どの」  揺珠の白い指が、淑夜の手に重なった。 「あなたと一緒に参ります、淑夜さま。連れていってくださいますわね」 「つらい思いをさせるかもしれませんが」 「わたくしは、だいじょうぶ」  淑夜の肩に、つややかな黒髪が音もなく傾いた。  一同の最後に犂堡に到着したのは、段大牙を中心とする一行、十数人だった。  羅旋がこの邑に到着して五日目の、夕暮れだった。  足もとに漂いはじめた薄闇をけちらすようにして、彼らは馬を疾走《しっそう》させてきたのだ。  羅旋に命じられて、邑を囲む堡塁の出入口の柵《さく》を閉じようとしていた邑長たちは、その迫力に圧倒されて、あわてて再び柵を開いた。  彼らは全員、邑の中央の広場まで一気に走りこみ、馬からころげ落ちるように降りて、そのままその場に座りこんでしまった。  三日目の夕刻に到着していた徐夫余《じょふよ》が、邑の奥から飛んで出てきて、大牙たちのために水を命じ、馬たちの世話をするよう指示を出した。 「おそかったな」  その後からゆっくりと迎えにでてきた羅旋が、さすがに、すこしいらついた口調でいうと、 「なにをいう。一番遠い道筋を選ばされたんだぞ。こんなことなら、百花谷関《ひゃっかこくかん》へいったんもどった方が早かった」 「俺たちの意図を、大声で〈衛〉に宣伝して歩くようなもんだ。先回りして、待ち伏せされたかったか」  大牙の口の悪いのは百も承知だから、羅旋が苦笑しながらやりかえすと、 「どうせ、攻めるんだろう。おんなじことだ」  まだ息をきらせながら、大牙はその場に大の字に寝ころんだ。当然、大牙に同行していた兵たちは、それ以前に横になってしまい、仲間たちにひきずり起こされているところだ。 「おい、だいじょうぶか」 「手を出すな。ひとりで起きられる。ただ——」  意地を張って、大牙は羅旋の手をはらいのけたが、そこでまた息が切れた。 「もう少し、寝かせといてくれ」 「そうはいかない。明日、ここを発《た》つんだ。手助けがいらないなら、とっとと起きて支度をしろ。でなけりゃ、襟首《えりくび》つかんで引きずり起こすぞ」  羅旋は大牙を蹴りとばすふりをした。目はつむっていたが、羅旋が本気かどうかは気配でわかったのだろう、大牙はぴくりとも動かない。  当然の話だ。  いくら体力のある男でも、遠路を来た上に、休息もほとんどなしにまた出発というのは、かなりきついはずだ。しかも大牙はその前に、百花谷関から巨鹿関《ころくかん》まで、強行軍をやっている。その間、数日間の余裕はあったが、体力も消耗しているし、精神的な負荷も相当にある。大牙の気力が、この瞬間に最低だったとしても無理はない。 「徐夫余、かまわん。ここにこいつが寝ていては邪魔な上に、士気にもかかわる。ひきずってでも連れていけ」  羅旋が吠えた。 「しかし——」  と、困惑したのは、長身で温厚そうな顔だちの青年だ。  徐夫余は羅旋|麾下《きか》の副将格だが、もともとは〈奎《けい》〉の民である。元・〈奎〉王の段大牙には、遠慮がある。 「すこし待ってください、羅旋。大牙さま、とにかく起きてください。水を用意しました、せめて、ひと口——」  肩に手をかけて揺りおこそうとする徐夫余の頬を、水滴がかすめた。 (雨——?)  と、見上げた徐夫余の目に映ったのは、傾きかけた水桶《みずおけ》と、それを支える手。そして、手の主は——。 「壮棄才《そうきさい》どの、待ってください!」  徐夫余が止めた時には、桶の水の半分は大牙の顔の上にこぼれていた。 「何をしやがる!」  反射的に飛び起きた大牙の目の前に、 「お顔を」  壮棄才のうっそりと陰鬱《いんうつ》な表情と、桶に残った水がさしだされた。 「この野郎——」  あまり仲がよいとはいえない壮棄才の、この強引な手段に、大牙は疲労《ひろう》を忘れてつかみかかる。一方、壮棄才は、さっと身体を退いてかるくかわした。 「やめないか、大牙。おまえが夫余を困らせるから、こいつが加勢しただけだ。その水で顔を洗って、さっさと起きてこい。軍議の席に遅れたら、他の者にしめしがつかん」 「——少しは、手加減してくれ」  羅旋にきびしくとがめられて、さすがの大牙も弱音を吐いた。ただし吐きながら、のろのろと腰をあげ、 「着替える間、待ってくれ」 「いいだろう。徐夫余、乾いた服を用意してやれ」 「はい」  命じられた徐夫余はうれしそうな顔を隠そうともせず、羅旋と壮棄才とにむかって、一度ずつ頭を下げてから、走り去った。  大牙が、不思議そうな目で壮棄才をのぞきこんだ。  もともと、壮棄才はめったに口をきかず、人と馴れ合うこともしない男だ。ずっとつき従ってきた羅旋に対しても、自分から隔意《かくい》をおくような態度が見えかくれしていたのだが、どういうわけか徐夫余とは相性がよかったらしい。  この行動の直前まで、徐夫余は青城《せいじょう》の行政を任されており、壮棄才はその補佐として派遣されていたが、その間の業績は派手ではないが着実で、文句のつけようのないものだったという。  ともあれ、大牙はその場に残った水で顔を洗い、髪や身体をぬぐい、衣服を着替えて指示された邑長の家へむかった。  室内に入ると、低い天井のあたりにたちこめた闇のために、視界が一瞬、閉ざされた。何度かまばたいて、ようやく慣れた目には、土間の中央の炉で燃える火がまっ先に飛びこんできた。炉の周囲に、藁筵《わらむしろ》が何枚か敷き散らされており、正面奥に、戸口をむいてまず羅旋が陣どっていた。  その右どなりに五叟《ごそう》先生こと莫窮奇《ばくきゅうき》、左どなりの空いた席に、大牙は遠慮なく座りこんだ。  大牙のとなりに、続いて壮棄才。自然、その続きに徐夫余が座ることになる。右側にぽっかりと大きく空いた席に、 「申しわけありません。遅くなりました」  ふわりと白い羅を羽織った揺珠が、外からあわてて駆けこんできて、羅旋に一礼しながらすべりこんだのだった。その背後を守るような形で、淑夜が無言のまま最後の座を占める。どうやら、淑夜が揺珠を呼びにいっていたらしい。  女である揺珠が、軍議に同席することを奇異に思う者は、この場にはいなかった。  彼女は前王の姪であり、〈魁〉の正統を引き継ぐ資格のある人物だ。彼女の身柄を他者に押さえられれば、羅旋の〈琅〉王即位の根拠は薄くなってしまう。それでなくとも、即位の儀も他国へ向けての宣言もない、〈琅〉国内で急遽《きゅうきょ》、協議し暫定的に妥協した結果の即位だ。前王の姪の揺珠の、羅旋支持は大きな力となる。  万が一、彼女を人質にでもとられた場合、羅旋は軍を退くしかないだろう。故に、少なくとも羅旋の目の届くところで、安全を確保しなければならない。これが第一の理由。  そして第二の理由は——。 「大牙さま、まずは無事のご到着、お祝い申しあげます」  向きあった大牙に、揺珠は淑やかに手をついてあいさつした。 「揺珠どのも、無事でなによりだ。なにやら忙しそうだが、どうされた」 「出発の準備をしておりましたの」  玉公主とよばれ、ついこの間までれっきとした〈琅〉の姫君だった彼女が、自ら働いていることに、大牙はすこし驚いた。 「揺珠どのの支度など、兵卒かだれかに任せておけばいいのでは。なにも、ご自身が」 「いえ、行動をご一緒する以上は、わたくしもこの軍の兵のひとりです。それなりの責任を果たしたいのです。それに、支度と申しましたのは、わたくしひとりのことではありません。実は、糧食の管理を陛下——いえ、羅旋さまにお願いして、わたくしにやらせていただくことになりましたの。明日、出立するなら、それぞれにもっていく糧食の配分をしなければなりませんので」 「それで——」  女の揺珠が、軍議の席に顔を連ねた理由が、大牙にもようやく得心できた。  とはいえ、どことなくいごこちが悪そうなのは、大牙ひとりではなかったが。  その中でただひとり、揺珠の存在を意識していない五叟老人が、 「さて、始めるかの」  いつもと変わらない調子で口火を切らなかったら、沈黙がしばらく続いたかもしれない。とにかく、その声にうながされて、淑夜がすぐに動いた。  革の長靴の中から、一枚の布をひっぱりだすと、五叟老人に渡す。老人が、それを羅旋の膝の前の床に広げる。徐夫余が腰を浮かせて、炉越しにのぞきこんだ。大牙たちの視線も、一点に集中した。 「〈衛〉の地図か。いつの間に」 「おおまかなものですが。ここに来てから、ざっと書いてみました」  淑夜の声は落ち着きはらっていたが、それが彼にとってどういう意味なのか、この場に在る者たちは、あらためて意識した。  ここは、彼の故国なのだ。今は〈琅〉の人間だと淑夜はいいきるが、それでも過去は変えられない。淑夜自身はすでに割り切っていることだが、耿無影といよいよ正面きって対決するということが、どれだけ切実な意味をもっているか、想像できない者はこの場にはいない。  だが、淑夜はおだやかな表情で、 「ここが国都・瀘丘《ろきゅう》。こちらが〈鄒《すう》〉です。このすこし北が、新都。予定どおりなら、今ごろ羊角《ようかく》将軍が新都を急襲しているはずです。そちらの戦の趨勢《すうせい》も気がかりですが——とりあえず我々は、この〈鄒〉と瀘丘の間に点在している城市を攻めて、押さえることに専念します」 「国内の攪乱《かくらん》か」 「それもあります。羊角将軍に、〈征〉経由で新都に向かってもらいましたが、これは〈征〉との交渉次第で、確実ではありません」  実はこの時点で、すでに羊角は〈征〉国内を突っ切り新都を包囲し終えていたのだが、その直前に巨鹿関を出た淑夜たちはそれを知らない。 「新都を占拠《せんきょ》した無影の後背を攪乱して、できれば危機を感じさせて退却させられればいいのですが」 「それなら、瀘丘を直接攻めた方が、効果的ではないか」  とは、大牙のことばだ。 「そのとおりです。でも、それは我々でなくてもできることです。我々の身上は、騎馬の足の速さと、歩卒《ほそつ》の自在な動きです。瀘丘の包囲は、戦車主体の方子蘇《ほうしそ》どのの軍にまかせて、我々は動くことを考えましょう」  百花谷関近くに在った、前〈琅〉王・藺如白の軍は、王の死後、暫定的に方子蘇の指揮下にはいっている。その方子蘇に羅旋は、西の国境から〈衛〉国内へ攻めこむように指令を出した。  当然、現在、方子蘇は〈衛〉の国都をめざしている。 「我々の役目はもうひとつ。瀘丘から前線への補給線を断つことです。無影を退却の中途で——〈鄒〉あたりで立ち往生させられれば、数の上はこちらが不利でも、なんとか互角にもっていけるでしょう」 「〈衛〉軍を、分断するわけか」  細分化した上で、各個撃破《かっこげきは》していくわけだ。 「だが——無理があるぞ」  と、大牙が声を大きくした。 「瀘丘と〈鄒〉の間の城市をすべて陥とすのに、どれだけの兵力と時間が必要だと思う。しかも、我々は包囲戦は苦手だ。攻城用の器械《きかい》も持ってきていない。義京周辺の城市を陥とすのに、半年もかかったのはおまえたちだぞ。それに陥とした城市の管理に兵力を割いていったら、どうなる。——半年もあれば、逆に無影の奴《やつ》が俺たちを各個撃破していってしまうぞ」  大牙は、ただ淑夜に反対をしているのではない。戦の常道《じょうどう》——正論を提示しているのだ。だから淑夜も、しずかな表情でうなずいて、 「そのとおりです。そんな悠長《ゆうちょう》な時間も、人手も我々にはありません。城市を直接攻めるのではなく、人が城市の間を移動するところを狙います」  現在、〈衛〉の兵力の大半は、新都|攻略《こうりゃく》にふりむけられている。西方の国境と国都・瀘丘とには多少、残されているが、中間の城市が通常より手薄になっているのは当然のなりゆきだ。 「糧食等の補給にしろ、なんにしろ、城壁の外に出る必要が彼らにはあります。そこを、襲えばいい。野戦の、しかも不意討ちでなら、騎馬兵の方が圧倒的に有利です。逆に、兵が外へ出てこない城市は、放っておいてもいい」  城市を守っていても、なんの意味もないのだ。城市は点にすぎない。彼らが城内にしがみついているあいだに、〈琅〉の騎馬軍は〈衛〉国内を自由に遊弋《ゆうよく》することができる。つまり、面を手中にするわけだ。どちらが実質、〈衛〉を手中にしているかといえば、どう見ても後者である。 「それにしても」  と、大牙はなおも食いさがる。 「城を放置しておくわけにはいかないぞ」 「わかっています。それは、ここでなんとかします」  と、淑夜は自分の頭を指でさしてみせた。 「投擲器《とうてきき》や槌《つち》や梯車《ていしゃ》だけが、攻城用の道具ではありません。策は、いくらでもあります。むしろ、問題なのは、占領した城市をどうやって維持《いじ》するかの方ですよ」 「人手は、こちらの方が足りないからなあ」  新都におしよせた〈衛〉軍は、軽く五万はいると思われる。さらに〈鄒〉や、西方の国境に展開している数を合わせれば、七万はゆうに越える。  一方、〈琅〉は羅旋の麾下が五千強、羊角が本来、方子蘇の手兵もあわせて率いているから二万。方子蘇は、如白の残した親衛軍を率いることになっていて、これが一万。  巨鹿関の内部には、廉亜武《れんあぶ》の軍一万があるが、これはうかつに動かせないし、国都・安邑《あんゆう》に在る藺季子《りんきし》の一万も、できれば温存したい。  三万五千強と七万では、倍と半分だ。 「だから、いざとなったら、非常手段をとります。……それは、大牙にも覚悟しておいてもらわねばならないんですが」 「非常?」 「万が一の時には——」  と、淑夜がきりだしかけた声を奪うようにして、 「一城を殲滅《せんめつ》します」  低い、うっそりと重い声が、地を這うように流れた。 「——壮棄才」 「我らに抵抗した場合、その城市を、徹底的に焼き払い、住民全員を殺し尽くします。そうすれば、他の城市も自重《じちょう》するでしょう」  そのことばの内容より、声の陰鬱《いんうつ》さからすさまじい光景が連想された。 「——みせしめにするのか」  愕然《がくぜん》となったのは、大牙と徐夫余のふたりである。  前もって聞いていたのだろう、羅旋と五叟老人はさすがに表情を翳《かげ》らせたが、驚いた気配はない。そして——。 「まさか、壮棄才」  それぞれの気性は、ある程度のみこんだ顔触れだ。大牙にも、ことの推移の推測はついた。  壮棄才がまず、最初から殲滅をいいだしたのではなかろうか。それを、淑夜たちが「万一の場合」という線でおさえこんだのではないか。だが、それにしても、大牙は納得できなかった。 「耿淑夜、まさかおまえまで、こんな汚いやり方に賛成というのではなかろうな」  淑夜の落ちつきはらった表情に目をとめて、大牙は眉をつりあげ、片膝を立てて身を乗り出して吠えた。 「おまえまで、この冷血とおなじ獣《けもの》に成り下がったというのでは——」 「私たちは、戦をしているんです、大牙」  淑夜はしずかに、まっすぐに顔をあげて応えた。恐れる色もなく、ことさら構えるでもないその声音に、早くから彼が覚悟をかためていたと知れた。 「それに、万が一の場合です」 「それでもだ。やろうとしていることの意味が、わかっていっているんだろうな、淑夜。わかって承認したんだろうな、羅旋。五叟先生もだ。今まで、最低限の被害しか出さないようにしてきた〈琅〉が、中原中で最低の戦をするんだぞ。魚支吾《ぎょしご》も耿無影も、太宰子懐《たいさいしかい》ですらやらなかったことを——」 「すべて、わかっているつもりです。では、大牙、他にどうしろというんです」  逆にたずねられて、大牙はことばにつまる。 「すべて、大牙がさっきいったとおりなんですよ。我々には兵力も時間もない。手加減している余裕はないんです」 「ここはおまえの故国だろう」 「故国だから、こうするしかないんです」 「淑夜!」 「大牙、淑夜ひとりに当たるな」  激昂《げきこう》した大牙を、羅旋の一喝《いっかつ》が止めた。 「俺が許可をした。責めるなら、俺にいえ」 「いわれなくても、そうする」  と、大牙は膝の向きを変えた。その片手が、脇においていた剣をいつの間にか取り上げている。だが、羅旋は腕組みをしたまま、底光りする緑色の眼で大牙を見据えると、 「降伏した城市は、すべて許す。必要分の糧食は供出させるが、それ以上、住民の財産にも、むろん生命にも、指一本かけない。そのかわり、抵抗する城市に容赦はしない。これは公平な条件だ」 「もし、抵抗すれば——いや、まちがいなく抵抗するぞ」 「選択をするのは、住民の方だ。脅しやはったりで、こんなことはいえない。いった以上、抵抗をされれば実行に移さなければ、なめられて、やがて全滅するのは俺たちの方だ。もう、俺たちは山を越えてしまった。いまさら、引き返せない」  しばらく、大牙は無言のまま、じっと羅旋とにらみあっていた。大牙の闘気が次第次第に冷えていくのが、見ていてもわかった。羅旋の論理に納得したわけではない。ただ、彼のしずかな、しかし揺るぎない気迫《きはく》に屈したのだ。やがて——。 「条件が、ひとつだけある」  ぽつりと大牙は、つぶやいた。姿勢はそのままで、 「揺珠どのは、やはり安邑へもどっていただけ。こんな惨《むご》い戦を、婦人に見せるわけにはいかない」  だが、羅旋たちが困った顔をする前に、 「いいえ、わたくしは羅旋さまたちとともにまいります」  きっぱりと揺珠が告げたのだった。 「玉公主!」 「わたくしはもう、〈琅〉の公主ではありませんけれど、でも、元の王族として、〈琅〉の将来を見さだめる義務があります。大牙さま、大牙さまが元の〈奎〉の方々の行く末を見とどけようとなさるのと同じことですわ。それが、どんなにつらいことでも——いえ、だからこそ、わたくしは目をそむけてはいけないのだと思います」 「あなたに——それが、可能か」 「できるできないの問題ではありません。これは、わたくしの義務です。戦に同行すると望んだ以上、非難も恨みも、ひきうける責任がわたくしにはあります」 「しかし——」 「大牙さま、それではなぜ、玻理《はり》さまを戦に連れておいででした。玻理さまの手で傷ついた者、生命を落とした者もいたはず。玻理さまの手は汚れてもよく、わたくしは無垢《むく》なまま、無知なままでいろとは不公平ではありませんか」  いわれて、大牙はとうとう詰まってしまった。大牙の妻の玻理は、妊娠《みごも》ったために安邑へもどされたが、もともと戎族出身で弓の名手でもあり、大牙とともに戦場に立つのが常だった。当然、人が死ぬところも見ている。大牙に危害を加えようとする敵には、容赦なく矢を射かけている。それを惨いと思ったことも、戦場から遠ざけようと思ったこともない大牙だった。 「わたくしにも、戦をさせてください。羅旋さまや〈琅〉のために生命を賭《か》けてくださる方々の責任を、すこしでも分けてくださいまし」  揺珠の白い手が、膝の上で堅くにぎりしめられているのを大牙は見た。その手の上に、淑夜の片手が伸び、包みこむように置かれるのも見た。  揺珠が、だれの苦痛を引き受けたいと切望しているのか、それで大牙は理解した。  故国の人間を——いや、罪のない人間を傷つけることになる苦しみを、淑夜は感じている。彼ひとりだけではない、ここにいる人間が全員、再認識しているのだ。戦とはそういうものだと、改めて胸に刻みこんでいるのだ。  今、戦を避けて軍を返したとしても、いずれは〈衛〉とは雌雄《しゆう》を決《けっ》する時がくる。その時には、敵味方にもっと多くの犠牲《ぎせい》が出るだろう。それまでの間にも、いくつもの戦があり、何人もの人が死ぬだろう。 〈衛〉を攻めるにしても、今以上の好機《こうき》が再度あるとは思えない。  羅旋と淑夜、それに壮棄才が選択したのは、最小限の犠牲でこの中原を統一する方法だった。それを悟ったからこそ、五叟老人も、そして揺珠も目をそむけまいと決心しているのだ。 「——わかった」  大牙が息を吐きながら、そのことばを口にするまでに、永遠にも近い時間が流れたように思えた。 「わかった。おまえが王だ、羅旋。おれが立てた王だ。王の命令には従う」 「——安心した」  羅旋もまた、殺していた息をしずかに吐いた。 「おまえはまだ、俺に逆らってくれる」 「なに?」  話がずれて、一瞬、大牙はめんくらった。その顔にむかって、 「俺がほんとうに間違っていると思った時には、容赦なくいってくれ。俺がいつか、魚支吾や太宰子懐のようにならないという保証はない。その時、だれかが、力ずくでも止めてくれる確約があれば、俺は安心できる」 「羅旋——」 「考えてみれば、おまえが俺を王に仕立て上げたんだ。俺が暴君になったら、おまえに止める責任があるのは当然だがな」  ようやくいわれていることを呑みこんだ大牙は、 「わかった」  しっかりとうなずいた。 「約束する。おまえがどうしようもない王になったら、刺し違えてでもおまえを止めてやる。そのかわり、約束しろ。こんな惨い戦は、これで最後にすると。今度、こんな選択をしなけりゃならない場合は、おれたちの方を犠牲にすることを考えろ」 「俺だってこんなことは、二度と考えたくないさ」  さすがにふとい眉をしかめて、羅旋は吐き捨てた。 「では、明日の早朝、ここを出発します」  淑夜が、今までのいさかいがなかったかのような口調で、話題を変えた。 「とりあえず、瀘丘の近在の城市へ向けて降伏勧告を出し、出方を見ましょう。そちらは、我々本隊が向かいます。大牙と徐夫余には、それぞれ騎兵を率いて東へ向かってもらいます。城市間を移動する軍があったら、できるだけ叩いてください。でも、無理な戦はしないでください。派手に、速く動きまわるだけで十分ですから」 「示威《じい》か」 「数を多目に見せかけられれば、さらにいうことはありません」 「そういうことなら、任せてもらおう。徐夫余もいいな」 「はい」  大牙と徐夫余は、羅旋の臣下としては同格のはずだが、最初に出会った時の、国主の公子と一兵卒の意識はどうしても抜けないでいる。ただ、徐夫余がそれで卑屈になっているわけではないし、大牙が横暴をふるうわけでもないから、羅旋もそのままにさせている。  そもそも、〈琅〉王のはずの羅旋が「陛下」と呼ばれることをいやがっている。まだ、即位の儀式も国外への公布もなく、ただ五国相の間で暫定的に合意しただけの王である。王というより、大将軍と考えた方がいいのかもしれない。とすると、現在のところは、このままでも十分だ。 「——でも、そのうちに次第に改めていかねばなりませんけれどね」  疲労が極点まで達した大牙は、とりあえず明日の目的地を聞き終えると、早々にひきとってしまった。羅旋たちもそれぞれ、明朝の準備をしに散っていき、淑夜と揺珠だけがあとに残った。その淑夜も辞去しようとして、外に出たところだった。 「この戦が終われば、羅旋は文句なく、〈琅〉の王になるでしょう。そうしたら、少なくとも公の席では、私たちは膝を折らなければならなくなります」 「——羅旋さまを、孤立させてしまうのですか」  王族として育った揺珠には、淑夜のいおうとしている意味がよくわかった。 「でも、それが王になるということでしょう。大勢の人間の命運をその手に握り、責任をもつということでしょう。いくつもの特権は、そのひきかえです。人から仰ぎ見られるのも——」 「羅旋さま自身は、そんなことは望んではおられませんのに」 「それでも、王になるしかないんです。彼以上に、王にふさわしい人間がいない以上」  深い吐息とともに、淑夜はいいきった。  羅旋だけではない、やがて大牙も淑夜自身もしかるべき地位に就けば、それなりの礼儀作法に縛られる。〈容〉にいた時、大牙とは直接話すこともできなかったように。口ぐらいはきくことができても、今夜のように火をかこみ、膝を突き合わせて怒鳴りあうことはできなくなる。皆が、それぞれの孤独に耐えていかなければならなくなる。  それが、国を造るということなのだと、淑夜は知っていた。ただ——その中でひとりだけは、これから彼のかたわらに寄り添い続けるだろう。それだけが、救いだった。 「こんな時が来るとは、思わなかった。初めて——羅旋と出会った時には」  仰いだ天には、降るような星がまたたいていた。      (二)  それは、怒濤《どとう》のような勢いだった。  はるか彼方に砂塵《さじん》が見えてから、その軍が新都の城壁の下に到達するまで、あっという間だったような気がした。  実際には、それほど早いわけではなかったのだが、城内の〈衛〉軍にしてみれば、傷つき破られた城門をふさがねばならなかった。その焦りが、時間感覚を狂わせたのだろう。  ともあれ、〈衛〉軍は自分たちが壊した門を内側から閉じた。急いだために、外に設置していた攻城用の大型器械をひきこむことができなかった。 「なんということだ」  城壁から見下ろして、耿無影《こうむえい》は吐き出すようにつぶやいた。 「まさか、〈琅〉が北から来るとは……」  西の巨鹿関に駐留中の軍には神経を使っていたが、北は無防備だった。むろん〈征〉の援軍が来ることは予測していたが、まだまだ先になるだろうと計算していたのだ。 「夢でも見ているのではないか。〈琅〉軍がなぜ、〈征〉国内を通れるのだ——」  無影の周囲も、声こそひそめてはいるが、動揺は隠し切れない。また、無影もそれを、頭ごなしに止めることはできなかった。無影自身が、まるで詐欺《さぎ》にでもあったような、何がなんだかわからない気分なのだ。  軍勢《ぐんぜい》がかかげる旗には、「琅」の文字の他に、「羊《よう》」の字も見えた。指揮をとっているのが、曲邑《きょくゆう》を守っていた羊角将軍であることはすぐにわかった。問題は、その旗の中に一本だけ、「禽《きん》」という文字があったことだ。 「〈琅〉と〈征〉が、手を結んだのか」  無影が新都へ軍を進めてから、この日まで、せいぜいが十日ほどだ。いくら〈征〉の立場が不利になったからといって、昨年からずっとにらみあっている両者が、簡単に和解して共同戦線を張れるとは思えなかった。  たとえ〈征〉が妥協したとしても、〈琅〉がこの好機を見逃すとは思えなかった。〈征〉をほうっておいて、最盛期をむかえた〈衛〉に牙《きば》を剥《む》いてくるほど、莫迦《ばか》だとは思えなかった。〈琅〉王や、他の者はともかく、淑夜が——彼の堂弟がそんな勝ち目のない戦をするとは——。 (いや、そういえば一度だけ、あいつは勝ち目のない戦をしかけてきた)  左頬の傷痕が、白く燃え上がったような気がした。 「——そうなのか、淑夜」  これは、淑夜の賭けだ。ただ、今度は勝ち目は五分と五分と見た上での賭けにちがいない。  そう思いあたった時、無影の全身をはしるものがあった。  数年前、寿夢宮の廃墟の中で出会った時の、淑夜のまっすぐな視線を、突然、彼は思いだしたのだ。八年前には激しい憎悪を浮かべていた目は、無影を通り越してどこか遠い理想を見ていた。頭を下げられない無影が、せいいっぱいさしのべた手は、あっさりと拒否された。 (負けるかもしれない)  彼が初めて抱いた、敗北感だった。  あの時、無影は、未来の展望のない淑夜に救いの手をさしのべたつもりだった。憐憫《れんびん》も少し、あったかもしれない。だが、救いを必要としていたのは、もしかしたら無影の方だったのかもしれないと、ようやく思いあたった。  少なくとも、淑夜はもう、だれの手も必要としていない。逆に、淑夜の頭脳、怜悧《れいり》な判断を必要とする人間が、〈琅〉には大勢いるのだ。 「陛下、兵たちの動揺が押さえられません。どういたしましょう」  側近《そっきん》として常に従っている百子遂《ひゃくしすい》が、城壁から降りる無影に、低い声で訊ねた。 「包囲されて、勝てると思うか」  答えろという方が無理な質問だったが、無影の冷たい声は、沈黙を許さなかった。 「——それは、その」 「構わぬ。思った通りをいえ」 「援軍が来れば、なんとか」 「百来なら、この状況を聞けば、すぐに援軍をさしむけてくれるだろう。だが——」  そうなると、〈衛〉本国が手薄《てうす》になる。とりあえず、新都に攻めよせてきた〈琅〉軍の数は多くないが、中に〈征〉の禽不理《きんふり》が加わっているとなると、〈征〉軍の主力も、いずれ駆けつけると思うのは当然だ。さいわい、巨鹿関にいた〈琅〉軍の一部は、自らの手で関をふさいで、出てこないものの……。 (なに——?)  突然、落ちてきた思考に、無影は愕然とした。 「陛下、どうなさいました」  足を止めて凍りついた無影を、百子遂が案じる。その表情から、自分の顔色がどんなものか、察することができた。 「しまった」 「陛下?」 「謀られた。巨鹿関だ。巨鹿関にいた〈琅〉の将は——」 「現在は、廉亜武将軍と聞いています。その前、巨鹿関を陥としたのは、元の〈奎〉伯の嗣子《しし》だった段大牙どの」 「そして、義京にいたのがあの赫羅旋……。連中が、この事態を見ておとなしく義京にひっこんでいるはずがないと、なぜ気づかなかった!」  巨鹿関が封鎖されたためだ。それを、無影は「攻めこまれては困る」という意思表示とうけとった。実際、〈征〉との問題をかかえている〈琅〉に、〈衛〉を相手どる余力はないはずだった。だが——。  無影は、〈琅〉の藺如白が没したことを、まだ知らない。漆離伯要《しつりはくよう》は、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》を〈琅〉に派遣して攪乱しようとしたことまでは、無影に白状しているが、それから先、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が逃げてからの行動は知らない。まして、意気地《いくじ》無しとさげすんでいた|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が、中原をくつがえしてしまうような大事をしてのけたとは、想像もできなかった。それは、七年前、体よく|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器を〈衛〉から追い出した無影にしても、同様だった。どうせ、どこかで野垂れ死んでいると思っている。  藺如白は慎重な人柄だ。〈衛〉が多少の隙《すき》を見せたところで、それに乗じてつけこんでくるような真似はしない。無影はそう思っていたし、それは正しい。だが——。 (何かがあったのだ)  赫羅旋や淑夜が如白の指揮下を離れる、もしくは、独自の裁量権《さいりょうけん》を与えられるような事態が。  巨鹿関を閉じてしまえば、そこから西は安全だ。しかも〈征〉と〈衛〉が戦中となれば、目を離しても、攻めとられるおそれはない。とすれば、彼らは百花谷関まわりで外へ出ても、問題はない。  いや、無影も莫迦ではない。〈衛〉の西の国境には、それなりの数の兵力を配置していた。藺如白の本営《ほんえい》が、百花谷関ちかくまで出てきていたのは知っていた。だが、〈琅〉は各地に将軍を分散させていた。もともと兵力の少ない〈琅〉の、六分の一の軍勢程度なら十分に食い止められたはずだ。〈琅〉軍といっても、もっともやっかいな赫羅旋の騎馬軍は、義京にあって、巨鹿関方面に釘付けになっているかぎり、如白は旧来の戦をするしかない。それなら無影にも、また守備を任せた者たちも十分に理解できるし、予測も対応もできる。 (だが、赫羅旋が百花谷関から出てくるとしたら)  この時、無影はまだ、羅旋が百花谷関を迂回すると思っていた。それでも、十分な脅威だった。  彼らの足が戦車なら、時間的な余裕もすこしは生まれるが、騎馬の脚の速さと機動性は、無影にとってもあなどれないものだった。  となると、現地の判断では対応できない。  西から、〈琅〉の旗がひるがえりながら国内へ雪崩《なだ》れこんで来るのが、目に見えるような気がした。 「淑夜のやつ……」  むろん、淑夜ひとりの策ではないだろう。赫羅旋の配下に謀士は淑夜ひとりではないし、羅旋自身が無影や漆離伯要たちとは違った意味での策士だと、さすがの無影も認識している。だが、やはり彼の感情の標的は淑夜になってしまうのだ。  口の中でつぶやいた声を聞き取りそこねたか、 「何とおっしゃいましたか」  百子遂が追いすがってくるのに向かって、 「退却する」 「は——?」 「南への退路があるうちに、〈鄒〉へ一旦退却する」 「そ、それは——新都を放棄するということですか!」  語尾が、悲鳴になった。  無理もない。途中から力押ししたために、敵味方ともに多大な犠牲を出している。それを、一戦もせずに簡単に放棄してしまうというのだ。では、いったいこの戦はなんだったのだと、百子遂でなくとも思うだろう。  非難が、その悲鳴の中に混じったのを、双方とも敏感に感じ取った。 「不満か」  冷たい目の隅でにらまれて、百子遂は震え上がった。 「い、いえ。そういうわけでは」 「いや、それが当然だ。だが、ここで孤立して、死ぬわけにはいかないのだ」 「孤立——ですが、〈鄒〉からすぐに援軍が」 「〈鄒〉が瀘丘と切り離されれば、孤立するだろう。急げ、不満をもらす奴はその場で捕らえろ。それ以上いうなら、置き捨てていけ。〈琅〉は見逃してくれるだろうが、〈征〉に引き渡されれば確実に生命はないぞ」  いうことだけを口早に告げると、無影は関心を断ち切るようにくるりと背中をむけた。子遂がそう聞いてどう行動するか、見ていなくてもわかった。選択の余地はないのだ。  無影の命令は、絶対だった。  さすがに愕然《がくぜん》とする者は多かったが、無影の命令に逆らい、意見をいう者はいなかったし、これでひと息つけると思った矢先の、〈琅〉軍の襲来に戦意を阻喪《そそう》していた。  粛粛《しゅくしゅく》と、秩序を保って南門から出ていけたのは、これまた無影の命令が恐ろしかったからだ。まだ、上意下達の軍の組織が生きていたこともある。  ただし、 「捕虜にした〈征〉の将兵は、連れてこい」  退却の間の、安全確保のための人質である。 〈琅〉軍には無効かもしれないが、禽不理が来ているのなら、彼の牽制《けんせい》にはなるだろう。そういうところは、無影も抜け目がない。  器械の多くはそのままに放置したが、食料はあらいざらい搬出させた。他国領内で糧食が足りなくなれば、かならず争いが起きる。手を結んだばかりなら、さらに諍《いさか》いは起きやすくなるはずだ。逆に、わずかに残っていた財には手をつけていない。これも、両者が奪い合ってくれればとの計算である。 〈衛〉軍の最後部が南門から出るのと、羊角将軍の戦車が封鎖された北門の前に到達するのとは、半刻と違っていなかった。 「やれ、逃げ足の早いことじゃ」  戦車の上から城壁を見上げ、羊角は白い髯をなでながらつぶやいた。城壁の上にはまだ、〈衛〉の旗がひるがえっているが、城内に人の気配がないのはすぐにわかる。  念のため、斥候《せっこう》を出して内部をさぐらせ、伏兵の有無を確かめてから、西門をこじあけて入城したが、 「これは、手ひどくやられましたな」  羊角は戦車から降り、禽不理と肩を並べながら城内を見てまわった。羊角が命じるまでもなく、部下たちは各所に散って、残留者、生存者の確認と被害状況の調査にとりかかっている。その統制のとれた行動に、さすがの禽不理が感嘆の声をもらしたほどだ。 「よくぞ、ここまで訓練なさったな」 「なに、儂はなにもしておらぬよ。ただ、あの者らはひとりひとりが、おのれの役目とそれをなすべき時と処を、きちんと心得ているだけのこと」  しかし、それがいかに難しいことか、禽不理はよく知っている。徴用した農民を、命令ひとつで動く兵卒に仕立てることは、至難の技だ。しかも、彼らは期限がくれば農地に返さなければならない。そしてまた、代わりに徴用した兵に一からたたき直さなければならないのだ。  納得していない心情が顔に出たのだろうか、羊角が低く笑って、 「ひとつ、我が国の機密をお教えしましょうかな」 「そんなことをして、よろしいのか」  驚く禽不理に、 「機密といっても、たいしたことではない。あの者ら——歩卒の大半は、貴国から逃げてきた者じゃ。与える土地もないので、兵として働かせている。おわかりかな、これが意味するところが」  つまり、彼らは職業的な兵士だということか。戦に出て生き残れば、それだけ強くなる軍ということだ。 「ま、いつまでも戦をしているわけにはいかん。ひと息ついたら、新たな土地でも探して開拓させるが、それもまあ、いつのことになるやら」  禽不理の動揺を見て見ぬふりをしておいて、白い眉をしかめたのは、放置された〈征〉兵の遺体を見たためだ。  無影の入城の際、一応、城内は清掃されたのだが、数が多く、すぐにすべてを埋葬《まいそう》するのは無理だった。建物の陰の空き地などに、並べられている彼らに向かって、頭を下げると、すぐに丁重に埋葬するよう、羊角は指示を飛ばした。 「身許の手がかりになりそうなものは、きちんと残しておくのだ。あとで、禽将軍にお持ち帰り願うからの」 「かたじけない」 「礼をいわれることではない、将軍。ひとつまちがえれば、いつでも儂もこの仲間に入るのだ。ぞんざいに扱っては、天罰が下る。それにしても、耿無影め、惨いことを——」  新都を死守して敗れた仇士玉《きゅうしぎょく》は、戦死していたにもかかわらず、遺体をひきずりだして、首をさらされた。罪人の扱いである。これには、〈衛〉軍の内部からも疑問の声はあがったのだが、無影に諫言《かんげん》する者はいなかった。無影が撤退《てったい》する時にも、城門にさらされたままだった首を、羊角は真っ先に収容するように命じ、胴をさがしだして、急ごしらえの棺に収めたのだ。 「それだけでは飽き足らず、生き残った将兵も、皆、連れ去ってしまうとは。なんという奴じゃ」 「追撃を恐れたのでしょう。私が奴の立場でも、同じことをします。しかし、糧食まであらいざらい持っていかれては、困りましたな、羊将軍」  入城直後、追撃を、と意気ごんだのは、羊角である。だが、曲邑から長い距離を、わずかな水と食料だけで駆け抜けてきた〈琅〉軍は、疲労の極限に近かった。あそこで無影が冷静に観察していたら、見抜いていたかもしれない。無影がそれで反転してきたら、羊角たちは撃退されていた可能性はある。ただし、羅旋たちが後背《こうはい》を衝《つ》いたと聞けば、いずれ撤退せざるを得なかったはずだが。  ともあれ、新都で脚を止めて休息するように勧めたのは、禽不理の方だった。 「このまま追撃しても、〈鄒〉を陥とすことはできませんぞ。休息をとり、装備を整えてからのこと。さいわい——というべきか、〈衛〉は攻城用の器械を置き捨てて逃走しておる。これを収容し、修理するものは修理して使うのが得策というもの。そのためには、時が必要です」  もちろん、その間に〈征〉軍も到着するだろうという計算である。〈征〉の代表として、禽不理がわずかな手勢とともに同行してきたが、これで〈征〉と〈琅〉が共同して戦ったとは、とてもではないがいい難い。このままでは、たとえ〈衛〉に勝ったとしても、功績はすべて〈琅〉のものになってしまう。〈鄒〉を攻めるなら、名実ともの〈琅〉と〈征〉の共同軍でなければと、禽不理は思ったのだ。  それを知ってか知らずか、羊角はすぐに賛成した。 「それは、そのとおりじゃの。では、そうするか」 「ただ、糧食だけが足りませんが——」 〈征〉を通過する条件として、〈琅〉軍はいっさい、糧食は自前で調達し、〈征〉国内のものには手をつけないことになっている。たとえ新都に糧食が残されていたとしても、そのまま〈琅〉軍に流用できるものではない。最低限、禽不理に頭を下げて譲り渡してもらわなければならないものだったのだ。  だが、羊角は困った風もなく、 「それなら、簡単じゃ。巨鹿関へ使いを出して、あちらから運ばせよう」 「しかし、巨鹿関は——」 「公道は封鎖されているが、人が徒歩で行ける道はいくらでもある。大量のものを、一気に運ぶ気でなければ、なんとかなるじゃろう」 「しかし——」  禽不理は、首をひねった。 「関内の〈琅〉軍や住民のためにも、食料は必要でしょう。こちらに回すほど、余剰がおありか」 「なに、赫羅旋——いや、新王陛下のことなら、とっくの昔に関内を出ておるころじゃ」  禽不理の目が、見開かれた。彼は、〈琅〉の新しい王に赫羅旋が推戴《すいたい》されたことは告げられたが、その動静までは聞かされていない。むろん、訊かれなかったのをいいことに、羊角がわざと口をつぐんでいたのだ。 「関内を出た——義京を離れたといわれるか。いったい、どこへ」 「申しあげたであろう。わが国の先王は、漆離伯要の刺客《しかく》に弑《しい》され、漆離伯要は耿無影の元に逃げこんでおる。したがって、〈衛〉に、漆離伯要の引き渡しを要求すると。羅旋——いや、陛下が動くとしたら、〈衛〉を攻めるために決まっておる」 「では、百花谷関へ——」 「いや、詳しいことは聞いておらぬが、おそらく山を越えたのではなかろうか。なにしろ、陛下の軍は騎馬と歩卒《ほそつ》が主体で、身軽じゃからの。糧食は、行く先で調達するともいっておったから、おそらく義京や青城に、備蓄分が残っておるはず。それをここへ運ばせればよい。早急に使者を出して、運ばせよう。一刻も早く、疲れをとって、追撃にかからねばならぬからの」  他にも、しなければならないことはいくらでもあった。指示を仰ぎにきた兵士に、羊角がてきぱきと命じるのを見ながら、禽不理はしばらく茫然としていた。  自分はもしかして、とんでもない話に乗ってしまったのではなかろうか。いや、〈征〉と〈琅〉の間の和議は本物だ。だが、このままでは〈琅〉は〈衛〉を自力で攻めきってしまう。そうしたら——。 (〈琅〉が、中原の覇者になる)  むろん、耿無影を倒せたら、という条件がつくが。だが、ほんとうに倒せたら、支配面積だけをとっても、〈征〉が対抗できる国ではなくなってしまう。 「あの戎族が、中原の支配者になるのか」  思わず、口の中でつぶやいてから、愕然《がくぜん》となる。魚支吾が、あれほど執念を燃やした覇業《はぎょう》を継ぐのが、他国の、しかも戎族の漢だとは——。  ただ、不思議なことに禽不理の胸に、怒りや憤《いきどお》りは湧《わ》いてこなかった。いや、まんまとその覇業《はぎょう》に手を貸してしまった悔いはあるが、強い反感はもう感じなかった。 (もう、儂らの時代ではないのだ、たぶん)  年齢からいえば、羊角将軍よりは若い禽不理だが、そう考えて嘆息した。  個々の年齢の問題ではないのだ。古い伝統があるということは、その分、どこかで硬直があるということだ。朝廷や軍の組織にしろ、人の考え方にしろ、固定され柔軟性に欠ける。その点、〈琅〉は若い国で、そういう国の人間の思考も若い。  天の時、地の利、人の和という。人の和は、まちがいなく〈琅〉にある。地の利は、知謀で克服した。そして——。 (天の時が、〈琅〉に傾こうとしているのだ。あらがえば、無駄におのれの命脈を断つことになるだろう)  ならば、今、〈征〉が、そして禽不理がするべきことは、〈征〉の命脈を長らえさせる努力だ。天を味方につけた〈琅〉に、逆らわないことだ。  そう決心して、禽不理は羊角の方を見た。  禽不理の胸の内が見えたわけでもないだろうに、その視線に応えて羊角は、またにこりとうなずいてみせたのだった。      (三)  百花谷関近くに駐留していた〈琅〉軍は、前王・藺如白《りんじょはく》直属の兵である。その数、およそ一万。  親衛兵《しんえいへい》としては多い方だが、一軍としては少ない。これはいざという時には、曲邑《きょくゆう》と義京、それぞれを守る軍に合流する予定だったからだが、 「もうすこし、数が欲しかったな」  如白が没した直後、段大牙と協議して、暫定的に指揮をひきついだ方子蘇《ほうしそ》はつぶやいた。  彼自身の兵は、曲邑の羊角に預けてきた。後方の安邑には、なお一万の兵が、留守として在るが、これを動かせば国都ががら空きとなる。〈征〉や〈衛〉から攻められる心配はあまりないが、さらに西方には戎族《じゅうぞく》がいる。  戎族の中でも、蒼嶺部《そうれいぶ》と呼ばれている一族は〈琅〉と盟約を結んでいるが、他の部が中原の騒乱を聞きつけて、東進してこないという保証はないから、うかつに安邑を空けるわけにはいかないのだ。 「それに、増援軍を待っている暇はない、か」  とりあえず、安邑へ如白の遺骸《いがい》を送りだしたのといれちがいに、安邑から急使が来た。巨鹿関から飛ばされた鳩が、羅旋の命令を伝えてきたのだ。 『方将軍には、西から瀘丘を攻めてもらいたい』  簡潔に、策が記されていた。 『瀘丘を無理に攻め落とす必要はない。包囲して、補給線を断ち、孤立させたまま維持してもらえればよい』  もらえればよい、というが、簡単なことではない。〈衛〉軍の大部分は東へふりむけられているが、国境付近の塞《さい》には守備軍も駐留しているし、如白の野営にはそれなりの警戒の目も光っていたはずだ。おそらく、異変があったことは察知されているだろう。 「それでも、やらねばならないか」  羅旋を王に推戴する件は、まだ承服しかねるところもあるが、臨時の総大将と思えば納得できないこともない。ただ、 「無茶をいってくれる、あの漢は」  いいながら、方子蘇はそれでも、ただちに装備をととのえなおし、間髪《かんぱつ》をいれずに〈衛〉に雪崩れこんだのだった。  案の定、国境近くを守っていた軍は、不意を衝かれて、あっという間に壊滅《かいめつ》した。〈琅〉の動きはわかっていたものの、まさか五千の軍勢で〈衛〉に侵入するとは予想していなかったのだ。  無理もない、単独行動なら絶対にとらない策だ。〈衛〉の兵たちはまだ、新都が羊角に攻められ、また、山を越えて羅旋たちが侵入してきていることを知らなかったから、油断しきっていた。 「彼我《ひが》の動きを把握《はあく》している者が、勝つという典型だな。よし、このまま瀘丘まで、急行する。間の城市にはかまうな」  いちいち、陥としていく暇はない。自分たちが侵入したという報告が瀘丘に届く前に、瀘丘にたどりついてしまえばよいのだ。むろん、敵地に孤立することになるが、持ちこたえられなければ退いてもよいと、羅旋は指示をしてきた。  ただ、羅旋との間の連絡はなるべく密にとって、退却する時はその旨、羅旋に直接、通知してくるようにということだったが、 「この状態で、どうやって連絡をとれというのだ。いや——瀘丘を囲めば、むこうから使者ぐらいたててくるか」  文句をいいかけて、方子蘇は思いあたった。羅旋の指示は、大ざっぱで到底不可能なようでいて、合理的なのだ。  しかし、実際問題として、公道を使う以上、要処要処の塞や城市を通過せざるを得ないし、こちらが無視するつもりでも、〈衛〉軍は意地でも通すまいとするのが当然だ。  瀘丘まであとひと息というところで、方子蘇の前に、〈衛〉軍がたちはだかった。  正確にいえば、宮振《きゅうしん》という人物が、自分の手勢を引き連れて瀘丘の手前の、飛雲坡《ひうんは》という地に陣取ったのだ。  巨鹿関ほどではないが、この川沿いの道は一方が川、一方からは山が迫る隘路《あいろ》となっている。平地でなければ公道から離れられない戦車主体の軍では、ここを通るほかない。迂回《うかい》する道もないではないが、それでは時間がかかりすぎる。  方子蘇は、正面突破を決心した。  宮振は、昔、〈征〉の煽動《せんどう》にのせられ、百来将軍をかついで〈鄒〉で謀叛《むほん》を起こそうとした前歴がある。この時は百来の冷静な判断と自制があり、彼らは事前に説得され、謀叛は未然に防がれた。本来なら、厳罰に処されるはずの宮振たちは、そのおかげで寛容《かんよう》な処置を受けることができた。所領《しょりょう》を減らされるのも位を下げられるのも、生命あってのことだ。  その点、宮振は百来に深く感謝している。無影にも感謝するべきだったのだが、宮振はそれを通りこして畏怖《いふ》の情を抱いてしまった。  なにしろ無影は、彼らの謀叛を事前に見抜き、わざと蜂起させて一網打尽《いちもうだじん》にしようとしたのだ。事は破れて許されたとはいえ、心証《しんしょう》を悪くしたことはまちがいない。次に、なにか非違《ひい》があったら、今度こそ殺されるだろう。その前に、失地挽回《しっちばんかい》しておかなければ。  その意識は強烈にあったのだが、あいにく、その機会がなかった。今回の新都攻略戦でも、不満分子と見られた者たちは皆、後方の補給の任に残されている。  今、無影が不在のうちに、国都・瀘丘が危機にさらされたこの状況は、宮振には願ってもない展開だった。ここで〈琅〉を撃退し、瀘丘を守り切れば、一転、無影の覚えはめでたくなるはずだ。  大柄な体躯《たいく》を甲冑《かっちゅう》につつみ、髭を逆立て、戦車の上で仁王立ちになった姿に、無影のような華麗さこそないが、いかにも頼りがいのある将軍には見えたはずだ。 「宮振は腕力こそあるが、頭も意気地も、たいしてあるわけではない。手勢も、奴の所領の農民たちをかき集めてきただけで、士気も練度も低い。正面から、押して押して、押しまくれ。気迫で押せば、奴は退く」  方子蘇は、血統からいえば純然たる中原の民である。だが、羊角と同様、〈琅〉が成立する前から、〈琅〉の地に移り住み、時には戎族と戦いあるいは共存してきた一族の、末裔《まつえい》である。戎族に対しては多少の反感もあるくせに、気性は、戎族なみに激しかった。合議の席で、よく羅旋と対立したのも、その気性のなせる業だ。その勇将の配下に、弱卒はない。  炎のような突撃が始まった。  戦車同士の戦は、戦車をすれ違わせ、戈《ほこ》を持った者が、相手をたたき落とすことで決まる。落ちた者の始末は、従う歩卒が行うのだが、この隘路では、互いにすれちがわせられる戦車は、一度に三台がやっとのことだ。しかも、戦車は簡単には方向転換ができない。  車上の甲士が落ちなかった戦車が、歩卒の群れに突入する。身を守る武器は短剣程度の歩卒は、戦車をひく馬に巻きこまれまいとして、わっと逃げまどった。  勢い余って、川に転落する者も出る。  と思えば、甲士が落ちてしまえば、あとは御者《ぎょしゃ》だけの戦車には、逆に歩卒が群がる。武器と高さの不利を数で補い、ひきずり下ろし、戦車を横だおしにしてしまった。  狭い道が、通行不能になるのは、あっという間だった。 「方将軍、ご指示、ご指示を!」  配下の者の声に、方子蘇は歯噛《はが》みした。 「あの莫迦《ばか》、もう少し考えて、戦場を選べばいいものを」  とはいうものの、隘路で敵を迎撃するのは、兵法としては常道だ。立場が入れかわっていれば、方子蘇も同じ手を使っただろう。ただし、もう少し戦い方は工夫する。たとえば両軍を隘路に入れるのではなく、出口に布陣して出てくる敵を叩くとか。  だが、宮振がここを選んでしまった以上、方子蘇に選択の余地はない。 「ええい、こんなところで立ち往生していて、火でもつけられた日には、大事だぞ。戦車が焼けてしまっては、歩くしか——」  わめきちらしていた方子蘇の声が、不意に止まった。 「方将軍?」 「そうか、歩けばよいのだ」 「なんと」  方子蘇の隣で、戦車の御者がのけぞるほどに驚いた。 「将軍、正気ですか?」  徒歩で走りまわり、おのれの手で人を斬るのは、卑《いや》しい歩卒のすることだ。御者も甲士であり士大夫である以上、とっさに矜持《きょうじ》を捨てられるものではないのだが、 「戦車の上でふんぞりかえりながら、じっと殺されるのを待っているつもりなら、それでいい」  というや、方子蘇は身軽に剣を抜きながら、地面に飛び降りていた。 「身動きがとれないのは、むこうも同じだ。だが、徒歩ならどこへ行くのも自在だ。戦車と馬のことは、ここを勝ってから考えればよい」  方子蘇につられた形で、すぐ後の戦車から数人がばらばらと降りて、走りだしてくる。 「雑兵にはかまうな、戦車を狙え。まず、馬の脚だ。次に、馬と戦車との連結を断ってしまえ。できれば、御者をひきずりおろせ」  こんな中というのに、方子蘇の命令は的確だった。いいながら、方子蘇自身、戦車の残骸を乗りこえ、その向こうで立ち往生していた一台の戦車から、馬を切り離してしまった。彼の猛進をはばもうと、〈衛〉の歩卒たちが襲いかかっていたのだが、武器と気迫の差で、あっさりと蹴散らされてしまった。  実のところ、戦車の上の高みから見下ろすのと、下から見上げて戦うのとでは、心理的にはかなりちがう。下から見上げるのが不利なのは、いうまでもない。ここまで違うのかと、方子蘇も実際に降りてみて、はじめて気づいた。  だが、それでひるむような漢ではない。  遮二無二《しゃにむに》つき進む将に気を強くした〈琅〉軍の兵たちが、次々とあとに続く。こうなれば、歩卒も甲士もなかった。 「卑怯者《ひきょうもの》!」  宮振がわめいたが、声は方子蘇には届かない。届いたところで、 「どこが卑怯だ。徒歩で戦をやってはならんという法は、どこの国にもないはずだ」  方子蘇は一蹴《いっしゅう》したはずだ。 「退《ひ》け」  宮振が、震える声で告げた時だった。 「主公《との》さま、うしろから——背後から、馬が——!」  絶望を声にしたら、こんな風になるかと思うような叫びがかたわらからあがった。 「なに——?」  と、ふりむいた宮振の両眼に映ったのは、有り得ない光景だった。背後の、瀘丘に通じる道から、こちらに向かってくるのは、騎馬の軍勢だった。馬上に在るのは当然、〈衛〉軍ではない。それどころか、〈琅〉の人間ですらない。旗のひとつもたてていないし、全員が戎族特有の彫りの深い顔立ちをしているのが、近づくにつれてわかった。 「何故、戎族がこんなところに——」  疑問がうかんだ時には、戦車群の間をすりぬけ、歩卒を楽々と蹴散らして、若い長らしい騎馬の漢が指呼の間に迫っていた。  その漢が、よく通る声で呼びかけた。 「方将軍!」 「左車《さしゃ》どのか」  応える声は、宮振のすぐ背中で起きた。 (え?)  と、思う暇が、あったかどうか。  宮振の下わき腹に、熱い痛みが走った。と同時に、彼の太い首を白い光がなぎはらう。体格のよい姿が、戦車の上からゆっくりと転げ落ちるのは、どこからでもよく見えた。  わっとあがった喚声は、〈琅〉軍の勝《か》ち鬨《どき》と、〈衛〉軍の悲鳴が入り交じったものだった。 〈衛〉軍といっても、領主の宮振の命令で、いやいや駆り出されてきた者たちだ。命令を下す者がいなくなれば、もう統制はきかない。懸命にこの場を逃れようとする者、その場にひざまずいて、命乞いする者、とにかく宮振の死で戦は終了したのだった。 「左車どの、だったな。蒼嶺部の」  馬上の戎族の青年を見上げながら、方子蘇がいった。まだ、抜き身の剣を握ったまま、返り血を浴びたまま、肩で荒い息をつきながらの壮絶な姿である。  さすがにその気迫に圧《お》されて、青年はすぐに馬から降りた。  戎族の中で蒼嶺部と呼ばれ、もっとも〈琅〉に近い地域を根拠地とする一族の、若い長である。赫羅旋の説得と取引に応じて、〈琅〉と友好関係を結んでいる彼らは、北方諸国との戦の時には羅旋に従って転戦したが、その後は西にもどって暮らしている。  今回の戦に、彼らの応援を要請したおぼえは、方子蘇にはないし、そんな暇はなかったはずで、 「感謝する、左車どの」  礼を述べたあと、方子蘇はすぐに疑問をぶつけた。 「だが、どうしてここへ。だれの命令で」 「あたしが、知らせた」  まだ、血の匂いが、うめき声と哀願が響く戦場に、ひどく不似合いな声が聞こえた。  左車の馬の隣に、ぴたりと寄り添ってもう一騎が、見下ろしてくるところだった。少年の衣服を着ているが、 「そなた、たしか段苳児《だんとうじ》どのの侍女《じじょ》の」 「茱萸《しゅゆ》といいます」  段大牙の姪姫《めいひめ》につきしたがっていた、戎族の娘の顔は、方子蘇もおぼえていた。大牙が西方の草原地帯に流罪《るざい》になっていた時、彼女たちは安邑の、揺珠の住まいに引き取られていたからだ。揺珠に馬を教えたのも、この戎族の少女と聞いて、当時、方子蘇は眉をひそめたものだ。  藺如白が没した時、大牙の一行に従って百花谷関にいた茱萸は、玻理と苳児につきそって安邑へ戻っていったはずだ。それがどうして——。 「安邑から、蒼嶺部の長に知らせに行った。長は、すぐに援軍に行こうといってくれた。千騎を、集めてくれた」 「それは——」  百花谷関から安邑までの距離は、たいしたものではない。だが、さらに安邑から西へ行き、とってかえしてここまで来るのに、どれだけの距離があるか。また、その日数を考えると、尋常な行程でなかったことはすぐにわかる。 「間にあってよかった」  無口な左車は簡単にいうが、せいいっぱい急いだ方子蘇の後を追い、この飛雲坡の手前で戦闘になることを予測して、迂回して敵の後背を衝いた判断も、凡将のできることではない。 「たすかった。心から感謝する」  手をとったのは、方子蘇の方からだった。 「いや、我々が来なくても、方将軍は勝ちかけていた」 「それでも、おまえたちの姿を見た時、どれだけ心強かったか。いくら感謝しても、し足りないぞ」 「礼をいわれることではない。羅旋との約束を守っただけだ。この代償は、きちんとはらってもらう」  方子蘇は笑いだした。ふだんの彼なら、ここでむっとするか、怒鳴りつけるところだが、気持ちが高揚したままなのだろう、 「それは、当然のことだ。それでは、このまま瀘丘まで来てもらえるのだな」  左車の手をとったまま、なかなか離さない。 「一応。羅旋の居場所がわかれば、そちらへ行く。届け物がある」 「届け物?」 「馬を」  と、茱萸が乗ってきた馬の鼻づらを、かるく撫でた。 「この戦、替え馬が要ると思ったから、長にいったの。そしたら、たくさん連れてきてくれた。それを、羅旋に届けるの」  左車がうなずいて、 「必要なら、方将軍にも置いていく」 「いや、私は乗れないから結構だが——馬か」  方子蘇は、その場でうなった。  徒歩戦の不利さが、終わった今ごろになって身にしみてきたのだ。上から見下ろしていた時に想像していたより、下にいるという威圧感は強い。かといって、こんな場合の戦車の、機動性の悪さも今回、思い知った。高さの優位性と機動性を兼ね備えているのは、騎馬だった。その上に、馬には戦車以上の速さも加わる。  そんな方子蘇を見ながら、 「馬に乗りたいなら、いつでも教える。茱萸、行くぞ」  左車は簡単に告げて、あっさりと背中をむけた。  急がせた馬たちを、休息させなければならないのだ。方子蘇も、この戦場の後始末の指揮を執らなければならない。話すことは、後でもできる。一刻も早く、この場を片付け、態勢を立て直し、瀘丘へ向かうのだ——。  二日後、方子蘇は瀘丘の城壁を臨《のぞ》む位置に戦車をたてた。かたわらに、左車と茱萸の騎馬があったのはいうまでもない。  瀘丘に残っていた者らは文官が多く、宮振の無謀《むぼう》な戦と戦死を聞いて、震えあがった。中には降伏、開城を唱える者もあったが、 「絶対に、なりません。陛下の留守に、国都を敵に売り渡そうとする者は、大逆《たいぎゃく》の罪で処刑しますぞ」  断固といいはなった者がいる。  無影の側近の商癸父《しょうきふ》だった。 「門を閉じよ。城内に残る男どもは、全員、武装して城門の守備につけ。女子供は、王宮とその周囲の官衙《かんが》に避難せよ」  男たちを狩りだすとともに、敵に内応者が出ないよう、家族を人質にとったのである。 「困ったことを。そんなことをして、城内が平穏にすむわけがないのに」  あまり困ってもいないような顔でつぶやいたのは、尤暁華《ゆうぎょうか》だった。  大商人の尤家も、商癸父の命令には逆らえず、男の使用人たちは全員、兵卒として連れていかれた。暁華は、数人の侍女たちとともに、王宮の内宮へ移るよう命じられた。 「非常事態です。城内にある尤家の財産は、すべて朝廷に召し上げます」  慣れない甲冑《かっちゅう》を着こんだ商癸父が、暁華の前にあらわれて、切り口上で告げた。  並みの女なら、たとえ不服でも、この事態なら仕方がないとあきらめるところだ。大の男でも、他の商家の主人たちは兵士にとりまかれながら商癸父にそう告げられると、全員、震えあがって頭を下げたのだ。  ここから見えるところに兵士はいないが、門や建物の外には屈強《くっきょう》な男たちが配してある。それがわからないはずはないのに、尤暁華は平然とした顔で、 「食料、衣料、武器、医薬品の類に関しては、いたしかたございますまい。ですが、金銀、宝玉等は没収なさっても、城外へ物を買いにいけるわけでなし、無駄だと存じますが」  暗に、どさくさまぎれに私腹を肥やす気かと非難してのけたのだ。顔色を変えたのは、商癸父の方だった。どうやら、図星《ずぼし》だったらしい。 「ご、ご婦人に、考慮していただく筋合いのことではありません」 「そうでしょうか。ならば、そういうことにしておきましょう。ただし、陛下がご帰還になった時には、その旨、申しあげて、不要だった分は返還していただくようにいたしますので、そのおつもりで」 「陛下のご寵愛《ちょうあい》をかさに着るおつもりか」 「無礼なことを。あたくしがいつ、陛下のご寵愛を受けました。これ以上、侮辱《ぶじょく》をなさるなら、ただではすみませんよ」  商家の女とはいえ、下手な士大夫よりも財産も発言力もある人物だ。なにより、あの気むずかしい無影が、身辺に近づけている女なのだ。  本人に、威を借りるつもりはなくとも、他人はそう受け取ってしまう。借りようと思っている人間なら、なおさらだ。  暁華の柳眉を見て、商癸父は腹の底で邪推《じゃすい》した。 「よろしい。どうただですまないかは、陛下が無事におもどりになった時に見せていただきましょう」  ようやく、それだけをいい返して身をひるがえした商癸父は、その時、この機会になんとかして暁華を排除《はいじょ》しようとひそかに決心していたのだった。 「たしか、尤暁華は、元の〈奎〉伯家とも交際があったはずだな。ならば、段大牙に対しての人質として使えるかもしれない。あの女から目を離すな」 [#改ページ]  第二章————————燎原の火      (一) 〈衛《えい》〉の国都・瀘丘《ろきゅう》と〈鄒《すう》〉との間には、いくつもの城市が点在している。どれもが〈鄒〉への補給の為には避けて通れない城だが、現在の防備は案外、手薄になっていた。小規模な城市は、備蓄分の糧食や武器のほとんどまで前線へ送ってしまい、抗戦できる状態ではなかった。  また、まさかこんな国内深くに敵が入りこんでくるとも思っていなかった。戦はずっと東であるのだし、〈鄒〉が陥落でもしないかぎり、自分たちが直接、命のやりとりをすることはないとも思っていた。  麦城《ばくじょう》は、規模としては小さいが、ちょうど瀘丘と〈鄒〉の中間に位置していた。小さな湖に面していて、南で収穫された食料は、川と湖を伝ってここまで運ばれ、さらに公道を通って瀘丘や〈鄒〉へと送られる。食料・物資の流通の要というべき城市だった。  もっとも、地形的に平坦《へいたん》な場所にあり、守るには不利な点が多いこともたしかだった。  この麦城の主は、紀可則《きかそく》といって、もともとは旧国主・堰《えん》氏の側近だった。耿《こう》氏ほどではなかったものの、紀氏もまた上級の卿大夫《けいたいふ》だったのだ。  無影《むえい》が国主の位を簒奪《さんだつ》した時、有力な卿大夫には懐柔《かいじゅう》策をとった。土地や位を目の前にぶらさげられて、無影に膝《ひざ》を屈《くっ》した中に、この紀可則もいたのだった。  だが、商癸父《しょうきふ》をはじめとした、無影子飼いの人材が出てくると、彼らは次第に不要になった。儀礼の際には上座を占める彼らだが、実務の場からははずされはじめたのだ。  もともと、彼らの実務能力には問題があった。国全体の利益より、個人、もしくは一族の利害を優先しがちだったからだ。中でも紀可則の場合、それが極端で、国全体の税率を引き上げるのには積極的に賛成しながら、自分の所有する土地には、昔からの特例や優遇|措置《そち》があると称して、逆に無影から免除をとりつけてみせたことがある。むろん、差額は彼の懐《ふところ》にはいった。  無影も、彼らの私利私欲を快く思っていたわけではない。だが、同様の手を使う卿大夫は、他にも何人かおり、あまり急激に、厳しく摘発《てきはつ》すると、卿大夫たち全体の動揺を招きかねない。それで、しばらくは静観していたのだった。  今回の新都への出兵は、無影にとっては、紀可則ら卿大夫から今までの分を絞りとるいい機会だった。彼らを、自領の守備につけるという名目《めいもく》で後方に残し、補給を担当させたのだ。その物資の調達のための出費は、むろん彼ら自身の負担である。紀可則たちは、せっかくためこんだものを、ほとんど吐き出さねばならなかった。 「ええい、いまいましいが、うかつに逆らうわけにもいかん。いっそ、新都で戦死でもしてくれれば都合がいいのに」  悪態をついていた紀可則だが、ある日、城壁の外に騎馬の一隊を見て、腰をぬかさんばかりに驚いた。 「じ、戎族《じゅうぞく》だ。戎族が、なんでこんなところまで」  瀘丘より西の土地は、秋になれば戎族の襲撃がときどきあったが、東に彼らが踏みこんできたことはない。それだけに、衝撃《しょうげき》は強かった。しかも、その一隊は、旗をひるがえしていた。 「〈琅《ろう》〉——〈琅〉が攻めこんできたというのか」  さらに、城門に射込まれた矢文の文面を、紀可則は衝撃のため、最後まで読み通すことができなかった。 「降伏せよと。でなければ、皆殺しにすると——〈琅〉王だと? 赫羅旋《かくらせん》とは、戎族の名ではないか。たしか、〈魁《かい》〉の戎華《じゅうか》将軍の姓が赫といったが」  古くから国政に関わっていただけに、かつての〈魁〉の将軍の名を覚えていたのだ。 「こんな脅《おど》しに屈せるか」  矢文を握りしめた紀可則だが、次に考えたのは、 (逃げよう)  という一言だから、なんとも情けない。  さいわい、麦城の南は湖に面している。こちらから船で逃げれば、いくら戎族でも追っては来られまい。奴らは矢文を射こんだあと、姿を消した。戻ってきて、本格的に攻めてくるにはまだ時間があるだろう——。  だが、結局、船に乗せられたのは、城内の女子供たちだけだった。  城を守る兵士たちはもちろん、紀氏の家宰《かさい》までが同行を拒否した。ふつうの男なら、家族を危険な場所に置きざりにして逃げられるわけがない。まず、逃がすなら妻子や年老いた親が優先だというのだ。紀可則ひとりでは船が動かせない。結局、兵たちの要求を呑むしかなかった。  また、紀可則自身、城内の財産を残して、身ひとつで逃げ出す決心はなかなかつかなかった。  あるだけの船で女たちを送り出すと、城内は厳戒体制になった。その中で、紀可則ひとりはまだ逡巡《しゅんじゅん》していた。  一番近い隣の城市に出した使者は、もどらなかった。とっとと降りたか、使者が捕らえられたか——どちらにしても、麦城は孤立したのだと紀可則は思った。となると、そのあたりから獰猛《どうもう》な戎族が湧くように現れ、襲いかかってくるような妄想《もうそう》に、紀可則はとらわれた。 「殺される——」  降伏した方がいいのか。いや、だが、そんなことをして、無影が無事に新都から帰ってきたら、どんな報復を受けるだろう。紀可則はまだ、無影が新都から撤退したことを知らないでいた。知っていたら、また、どんな判断をしたかわからないが、得体のしれない戎族より、無影の懲罰《ちょうばつ》の方が、具体的に想像できるだけ恐ろしかった。  ぴたりと閉じた城門の上の望楼《ぼうろう》へ、彼自身、毎日上っていったのは、その恐怖をいくらかでもまぎらわしたかったからだろう。 「ええい、耿無影はなにをしておる。こんな時に、もどってきて城を守るのが王の義務であろうが。早く帰国して、夷狄《いてき》どもを追い払わぬか」  勝手なことをいいながら狭い望楼の上をうろつくので、衛兵たちには嫌われていた。  そんな、ある日だった。 「主公《との》、あれを……!」  衛兵の指と声が、北からこちらへむかってくる砂煙《すなけむり》をさし示した。 「味方です。戎族に追われています!」  旗を確認した衛兵が叫ぶ。 「距離が開いているようなら、城門を開いてやれ」  紀可則は抜け目なく命じた。下手に城門を開いて、敵まで引きこんでしまうぐらいなら、味方を見殺しにする方がいいというのだ。 「十分に、間はあるようです」 「よし、開けてやれ」  破れた旗をひるがえしながら、三台の戦車が走りこんできたのは、まもなくのことだ。背後から執拗《しつよう》に追跡してきていた戎族の騎馬の群れは、城門が目の前で閉じられるのを見ると、意外にあっさり引き上げていった。 「水……」  若い甲士が、息も絶え絶えになりながら、紀可則の前に連れてこられた。 「危ないところを、感謝いたします。〈鄒《すう》〉から瀘丘《ろきゅう》へ、陛下のご命令で戻る中途、あの戎族らに襲われて、味方の大半は殺されてしまいました。我らは、他の者が盾になってくれて——」 「して、陛下は?」 「戎族どもの侵入をお聞きになって、すぐに新都を出られました。今ごろは、〈鄒〉を出発なさったころかと。すぐに、戎族どもをたたきだしてくださいましょう。今、しばらくの辛抱です、紀可則どの」  若い顔に見覚えはなかったが、無影が独自に人材を登用しているのは知られていたから、不審《ふしん》には思わなかった。なにより、紀可則の名を知っていたし、彼の顔立ちはあきらかに中原の人間で、戎族を思わせるものはなかった。 〈琅〉、すなわち戎族という固定観念、もしくは侮蔑《ぶべつ》が、紀可則の頭の中には強固にあった。その上、騎馬の戎族に追われていた。疑う余地はなかった。 「とにかく、ゆっくりと休まれよ」 「いえ、一刻も早く瀘丘へ向かわねば。明日の早朝には出立いたします。食事と、それから眠れるだけの隅を与えていただければ」  謙虚なことばにすっかり満足して、紀可則はその夜、久しぶりにぐっすりと眠った。無影が、軍を率いて帰ってくる。そうしたら、こんな面倒で物いりな任務からも解放される。この麦城も財産も、そっくり無事だ、逃げないでよかった、と。  周囲がざわついているのを感じたのは、夜明け前だった。そういえば、あの使者が早朝には出発するといっていた。だが、なぜ、この城内の最も奥の館の、さらに奥まった寝処まで、そんな騒ぎが届くのだろう。妙な話だが——。 「動くな」  身じろいだとたんに、喉もとに氷のようなものがつきつけられた。それでも目が醒《さ》めずに、半身を起こしながら目をこすったところに、 「そなた、誰だ。いったい、ここで何を」  見知らぬ漢が、枕元で剣を構えていた。 「動くなといったぞ、紀可則どの。その首と胴が泣き別れになっても知らんぞ」  その両眼が、異様な緑色に光ったのを、紀可則は見た。全身が、とたんに瘧《おこり》のように震え出した。 「じ、戎族……」 「はじめてお目にかかる。赫羅旋という。何故か、今は〈琅〉の王だ」 「で、では——!」 「ご苦労だった」  絶句する紀可則を無視して、羅旋はかたわらにいた若い男に合図した。無影の使者と称して逃げてきた男だと、すぐにわかった。つまり、芝居だったのだ。 「だ、だましたのか——」 「今ごろ、気がついたか。多少は疑って照合するかと思って、虎符《こふ》の偽物《にせもの》までこしらえたのに、無駄になった」  笑いながら、羅旋はからりと虎の形の金物を紀可則の足元に放りだした。背中からまっぷたつにした形で、背に文字の半分が刻んである。各城市に配備してある半分と合わせると、文章が浮かび上がるようになっている。合致《がっち》する半分をもっていれば、本物の使者という証拠になるのだが——紀可則は、それを確かめようとはしなかった。  この場合、だまされた紀可則の方が悪い。 「たった今から、貴殿は我らの捕虜、麦城は我々のものだ。無駄な抵抗はしないよう、くれぐれも申しあげておく」  いいながら、〈琅〉王はみずから、茫然《ぼうぜん》としている〈衛〉の卿大夫を、あっという間に縛りあげ、城内の建物のひとつに放りこんでしまった。城兵のうち、主だった者も、武装を解かれて集められていた。  なんのことはない、援軍が来ると聞いて、全城がほっと眠りこけた隙をみすまして、三台の戦車の乗員、九人が城門の見張りを倒し、内側から門を開いて友軍を引きこんだのだ。一滴の血も流れない、早業《はやわざ》だった。 「みごとだったな」  臨時の牢で、紀可則の罵詈雑言《ばりぞうごん》を聞き流していた羅旋は、ゆっくり入ってきた人影に笑いかけた。 「ひっかかる方が、悪いんですよ」  淑夜《しゅくや》も、苦笑しながら応えた。 「これで、六城目ですよ。しかも、私たちの手だけです。同じ手で、しかもこんな簡単な手で、よくもまあ、こんなにだまされるものだと思います」 「だます奴が、何をいう」  羅旋は、わざとらしく顔をしかめた。 「おまえが味方で、つくづくよかった。でなけりゃ、俺は今ごろ、〈琅〉王どころか、無一物で放り出されているところだ」 「何をいってるんです。〈奎《けい》〉にいた頃の私たちを、さんざんひっかけてくれた人が」  自分が相手にされていないと悟って、会話の間に、ようやく紀可則が静かになった。というより、さすがに疲れたのだろう。それを、淑夜は待っていたのだ。 「おとなしくしていれば、貴殿はもとより、住民の生命、財産には危害は加えません。くれぐれも、ご自重を」  そういいわたす淑夜の顔を、紀可則がまじまじと見ていたが、ふたりともあまり気にはとめなかった。  城を占拠したらしたで、その後の処理に時間も手間もかかるのだ。糧食や武器などの在庫、城内と周辺の地理の詳しい調査と、住民の確認。彼らへも、危害を加えないと公布しなければならない。  さいわい、〈琅〉軍——特に羅旋の麾下《きか》は統制がとれている。元は無頼だったり逃亡した農民だったり、社会からははみ出た者が多く、言動は荒いが、不法は羅旋が決して許さないことを身にしみて知っている。最初、敵意のこもった目で見ていた住民たちも、すぐにおとなしくなった。 「すべて、こううまくいけばいいんですが」  事務の統括《とうかつ》は、どうしても淑夜の担当になる。一度目を通しただけで、すべて記憶してしまう淑夜でなければ、城内にあった文書や帳簿を整理し、報告されてくるものを処理することは不可能だったろう。 「そういえば、そろそろ、方子蘇将軍が、〈衛〉国内にはいっているはずです。こちらから使者を出して、連絡をとってください」  淑夜のそのことばは、必要なかった。向こうから、使者が麦城までやってきたのだ。正確にいえば、茱萸《しゅゆ》が馬たちを連れてふらりと現れたのだった。 「とりあえずあと二百頭を貸すと、蒼嶺《そうれい》の長からの伝言」  替え馬を提供するというのだ。 「ありがたい。しかも、騎馬で二千騎もの兵力とは、心強い。よく来てくれたと、左車《さしゃ》に伝えてくれ」 「あたしが、伝えるの?」  茱萸は不思議そうな顔をした。 「他に、だれがいる」 「あたしは、あっちには帰らないよ。あたしは、公主《こうしゅ》さまの側にいるように、姫さまにいいつかってきている」  ちなみに、姫さまとは段大牙《だんたいが》の姪の苳児《とうじ》のことで、公主さまとは揺珠《ようしゅ》のことだ。  だが、 「なぜ、揺珠どのが俺たちと一緒にいると思った」  山越えをして〈衛〉を攻める策は、鳩で安邑に知らせたが、揺珠の動静についてはひと言も告げなかった。鳩に運ばせるのは小さな紙片で、書ける内容は限られていたためだ。  ふつう、玻理《はり》のような特殊な婦人でないかぎり、女を戦へ帯同するとは考えられない。まして揺珠は、王族ではなくなったと本人はいうが、それでも〈琅〉国内ではもっとも身分の高い婦人である。しかも、山越えといい〈衛〉国内深くの転戦といい、なみの危険ではない。揺珠は護衛をつけて義京に残すと考えるのが、順当なはずだ。 「姫さまが、そういった。公主さまは、淑夜さまと一緒にいたいはずだし、その方が安全だからって」  茱萸の無邪気な口調でいわれて、さすがの淑夜が視線を泳がせた。 「公主さまの衣類や、手回りの物も預かってきてる。それから、羅旋にも姫さまからの伝言」 「なんだ、今時分《いまじぶん》?」  苳児は、肉親の縁に薄かったせいか、妙に勘が鋭い。幼い時からたびたび、予言めいたことを口にして来、またほとんどをいい当てている。もっとも、漠然としたいい方しかしないのだが、信じるかどうかは別にして、羅旋は彼女のことばには耳を傾ける価値があると思っているようだった。 「星が落ちてくる、って」 「星——?」 「目の前に落ちてくるから、きちんと受け止めるようにって。羅旋は、妙なところで遠慮をする。でも、それは羅旋の星だからと」  羅旋と淑夜は、顔を見合わせた。その間に、口をはさんだのは五叟《ごそう》老人である。 「ほう、苳児どのは、儂《わし》の商売敵《しょうばいがたき》になられるおつもりか」 「商売敵?」 「星を読まれたのじゃろう?」  淑夜が、かすかに眉をあげたが、 「あたしは、知らない。姫さまの言葉どおり伝えてるだけ」  茱萸は無邪気にこたえた。  たしかに、茱萸を問い詰めても仕方がない。黙ってしまった漢《おとこ》たちにむかって、茱萸は別の件を持ち出した。 「羅旋、尤《ゆう》家のお方がまだ瀘丘《ろきゅう》にいる」 「まさか」  と、羅旋がめずらしく目を見張った。 「あの機に聡《さと》い暁華《ぎょうか》が、なんで瀘丘にとどまっていた。とっくの昔に、身を隠したものだと思っていたのに」  自分たちの行動が、他人の予測どころか自分自身の思惑《おもわく》まで越えていたことは、棚の上にあげている。 「理由は、あたしも知らない。でも、瀘丘から逃げてきた人たちに訊いてみたの」  茱萸は、暁華の紹介で苳児に仕えるようになった。その以前は、尤家の侍女として働いていた。西方から母に連れられてもどった後、孤児になった茱萸を、暁華がひきとり、身がたつようにはからってやったのだ。当然、彼女は暁華に恩義を感じている。瀘丘を囲んだ後、暁華を案じて、自分の判断で安否《あんぴ》を確かめてみたのだという。 「商癸父《しょうきふ》という奴につかまってるって」  羅旋は軽く舌打ちした。  さらに、淑夜の顔色がかすかに変化したのを見てとって、 「やっかいな相手か」 「無影の寵臣《ちょうしん》——と、少なくとも、本人は思っているような男です。才能はあるのでしょうが、なんというか——小人という印象がありました」  いつ会ったんだ、とは、羅旋は訊ねなかった。 「つまり、漆離伯要《しつりはくよう》の雛形《ひながた》というわけだな。なんでまた、そんな奴相手にけんかを売ったんだ、暁華の奴は」  だが、これまた茱萸を問いただしても仕方のないことで、とにかく羅旋は少女を下がらせて、揺珠のもとへ行くように命じた。  揺珠の側に、武器と馬をあつかえる侍女がついているのは、悪いことではない。毅然《きぜん》とした態度を維持しているが、揺珠が男ばかりの中で心細い思いをしているのもわかっていたから、茱萸の出現はむしろ、淑夜の負担を軽減してくれるものでもあった。だが、 「難問山積じゃな」  五叟老人が、苦笑まじりにいうとおりだった。その老人をいやな顔をして見下ろして、 「……二年ほど前だったかな。北の空に凶星《きょうせい》が現れたとおまえがいってきたのは」  羅旋はつぶやいた。 「ふむ。いったんは消えたがの」 「妙なこともいったな」 「王の星を侵す星だとな」 「その凶星が、落ちてくるのか」 「いや、とってかわるのさ」 「…………」  あまりにも軽くいわれて、かえって何もいえなくなってしまった。  落ちる星が耿無影をさすことは、ふたりにもわかる。淑夜も、無影を倒さなければならないと覚悟はしている。だが「落ちる」というような軽い表現が似合うような、簡単な仕事ではないのだ。少なくとも、むりやりひきずり下ろさなければならない相手であり、天にむかってふりかざすのは、人の手で作った槍がせいぜいの長さなのだ。 「とにかく、方子蘇《ほうしそ》のところへ使者を出そう。暁華の件も確認して、方策をたてなけりゃならん。人質にとられたら、動きが取れなくなるのは、俺だけではないはずだからな」  暁華に恩があるのは、羅旋だけではない。淑夜も大牙も皆、ある意味で頭があがらないのだ。 「それから、東の羊角《ようかく》との連絡も」 「羊角将軍のことじゃ。もう、新都は陥としているかもしれんぞ。こうしているうちに、〈鄒〉も手中にしかねん。ぼやぼやしていると——」  ずるそうな目をして、五叟老人は羅旋をうかがったが、 「あのご老体が無影をかたづけてくれるなら、俺は、なんでも譲るさ。だが、相手はあの無影だ。簡単に落ちてくれるなら、わざわざこんなところで悩んでない」  羅旋は、苦い顔をしただけだった。 「ぼやぼやしていて、つぶされるのはこっちの方だ。たとえば〈鄒〉から、軍も女もふりすてて、無影が単身ででもとってかえしてきたら——」  瀘丘は、国都なだけに、相応の守備兵が残されている。方子蘇が直接攻めることをせず、城門の外から囲むだけにとどめているのも、彼我の戦力差がちがうことを承知しているからだ。  今、瀘丘内にはろくな武将がおらず、戦に不慣れな商癸父は即座に籠城《ろうじょう》策をとった。どちらにしても、彼には戦不戦を決める権限はない。無影が重大なことをすべて決していたのだから、それが当然だし、おのれたちで臨機応変《りんきおうへん》に判断する力も、彼らは持ってはいない。  羅旋もそのあたりのことは見越しており、出戦にはならないと判断して方子蘇に、瀘丘の包囲を命じた。だが、もしも無影が瀘丘に入りおおせて指揮を執れば、〈鄒〉の百来と濾丘の無影との間で挟撃されるのは羅旋たちの方だ。新都の戦況を羅旋たちはまだ把握していないが、〈鄒〉からこちらの城市をほとんど押さえていない状態で、無影に国都帰還を目指されれば、羅旋の思惑は完全にくつがえされる。  羅旋ひとりのことなら、賭けに負けたとあきらめることもできるが、現在の羅旋は、仮ではあっても〈琅〉の王だ。羅旋の動静はそのまま、数多くの将兵の生死を左右する。そして、羅旋の敗北はそのまま〈琅〉の敗北となり、〈琅〉はその瞬間から〈衛〉の属国となるだろう。 「仕方がない」  羅旋は、ゆっくりと立ち上がり、そのまま天幕の垂れ幕をはねあげた。  麦城は制圧したが、羅旋は城市の内では寝起きしなかった。必要なだけの〈琅〉兵は配置したが、兵の大半は城外にとどめている。  羅旋の配下の軍は騎兵が主流だが、城内に馬を収容する施設はない。むしろ、城外に天幕を張り、その近辺に馬を放しておいた方が馬のためにはいいのだ。  さらに、 「降伏したといっても、ここは敵地だ。住人を全員、拘束するわけにもいかない以上、中に閉じこめられるようなことになっても困るだろうが」  羅旋は苦笑した。  城門を閉じてしまい、内部にいる味方を見殺しにする覚悟があるなら、なんとでもなるのだ。それだけ思い切った策が取れる人間は、めったにいないはずだが、それでも自分の考えられる限りの危険を、羅旋はおかす気はなかった。  天幕暮らしを苦にするような兵は、もともといない。ずっと中原の暮らしをしてきた淑夜でさえ、あっという間に天幕には慣れてしまった。  淑夜は、羅旋が出ていくのを見るや、杖をすくいあげるようにとりあげ、一動作で垂れ幕をかいくぐって後に続いた。 「どうするんです」 「とにかく、一度、瀘丘を見てくる」 「自身でですか」 「俺が行くのが、一番早い。今から月芽《げつが》をとばせば、一両日中に行ってもどって来られるだろう」 「いっておきますが、今のあなたは〈琅〉王なんですよ」 「俺は後方でふんぞりかえっている気はないとも、いっておいたはずだぞ」 「それにしても……」  少しは慎重になってくれといおうとして、淑夜は口をつぐんだ。前方から、壮棄才《そうきさい》が目を光らせながらやってきたからだ。彼がこんな目をする時は、余人をまじえず話をしたい時だ。 「では、先に行って月芽と超光《ちょうこう》の支度をしてきます」 「なんだ、おまえも行くのか」 「王が、とはいいません。でも、将には謀士も同行するべきでしょう。実地に見ていなければ、策がたてられませんよ。ついでに、護衛の兵もある程度、連れていってもらいます」  では、と一礼して行き過ぎようとした時だった。 「淑夜——!」  羅旋の怒号が、耳に届いた。  その緊迫した響きに、反射的にふりむいた淑夜の首すじをさらうように、ひきもどした腕がある。  淑夜は左足が悪い。  悪化させた当初、一生、動かないといわれた脚だが、ゆっくり歩いたり、馬に乗ったりする分には人目にもそれとはわからないまでになった。だが、急な体重の移動に、耐えられるほどには強くない。  なにを、と思う間に、均衡《きんこう》をくずして背中から地面にたたきつけられる。背骨をしたたかに打って、息が止まるかと思った。悲鳴をあげることもできない胸に、どさりと重いものがのしかかる。それが人の身体だと気づいたのは、胸の上で低いうめき声がしたからだ。 「羅旋……?」  いや、羅旋の声ではなかった。だいいち、羅旋の緑色の目は、頭の上からのぞきこんできている。ではいったい、とぼんやりと思った淑夜の鼻孔に、生臭い匂いがとどいた。口の中に、金気がにじんだ。血の匂いだ。 「壮棄才!」  羅旋が、顔中を口にする勢いで叫んだ。いや、何度も何度も叫んでいたのだ。それがようやく、淑夜の耳に声としてとどいたのだった。 「棄才!」 「壮棄才どの!」  背中の痛みをこらえながら、できるかぎりすばやく、淑夜は身を起こした。同時に、羅旋が上から壮棄才の身体をひき起こした。その身体に、一本の矢が突きたっているのを、淑夜は見た。  矢は、喉もとに刺さっていた。正確には、喉と鎖骨の間である。  倒れた位置と角度からして、矢が放たれたのは城壁の上だろう。淑夜を狙ったものか、羅旋を射たものかはわからない。ただ、結果として淑夜をかばった形で、壮棄才が倒れたのだ。 「なぜ——」 [#挿絵(img/08_075.png)入る]  羅旋ならともかく、なぜ棄才が淑夜をかばったのかわからない。はじめて出会った時から、淑夜を敵意のこもった目でにらみつけてきていた漢だ。その目の光は、八年経った今でも変わっていなかった。なのに何故。  反射的に矢を抜こうとして、 「莫迦《ばか》、抜くな!」  羅旋に怒鳴り飛ばされた。 「抜くんじゃない。血が止まらなくなるぞ」 「でも、何故!」 「天幕へ運べ。そっと、そっとだ! 城壁の降り口をかためろ。矢を射た奴を逃がすな」  矢継ぎ早に命じると、羅旋はみずから、腰の剣をぬき放って駆けだした。  一方、淑夜は、馳《は》せつけてきた兵たちに指図して、壮棄才を羅旋の天幕まで運ばせる。残っていた五叟老人が、驚いたものの、すぐに手早く治療をはじめた。  それを手伝おうと手を伸ばした淑夜だが、五叟老人はいつになく重苦しい顔つきで首を振った。それが、どういう意味なのか確かめる前に、天幕の外で人の声が動いた。 「羅旋——」  いたたまれずに飛び出した淑夜を見て、人の輪が自然に開いた。中央にひきすえられていたのは、気の弱そうな男たちが三人。風体から見て、職人の徒弟かなにかだろう。 「では——」  羅旋の重い声に、すでに男たちは震えあがっていた。 「あの矢は、耿淑夜を狙ったのだな」 「ひ——」  歯の根もあわず、声も出ない彼らにむかって、 「素直に白状しないなら、この場で八《や》つ裂《ざ》きにするぞ」  羅旋の緑色の目は、夜光眼《やこうがん》といって夜の闇の中でも見える夜走獣の目だ。日中にその機能を発揮することはないが、羅旋の気迫が込められた視線は、野獣のように底光りすることがある。  それを、正面から受け止めてしまったのだろう、 「い、いいます。いいます!」  ひと息呑んでから、右端の男が絶叫した。 「あ、あの若いのは、昔、王さまを暗殺しようとした悪人で、だから——ご、五城の」 「五城の、懸賞首《けんしょうくび》だって」 「殺すだけで、五城をもらえるって」  堰《せき》を切ったように、交互に話しはじめた男たちにむかって、 「だれに聞いた」  ずしりと、短い質問が飛ぶ。 「う、噂《うわさ》です」 「八年前にもそういう話を聞いてたんで、こいつは嘘じゃないと」 「千載一遇《せんざいいちぐう》の機会と思ったわけだな」  羅旋の視線が、足早に近づいていく淑夜へまっすぐ向けられた。 「うかつだった。おまえにかかった報奨《ほうしょう》は、まだ取り下げられていなかったんだな」 「私も忘れていました。〈奎〉が地歩《ちほ》をかためたら、五城をゆずり、それで私の身柄と相殺《そうさい》にすると、大牙と無影の間で話が決まっていたんですが」 「〈奎〉が滅んで、御破算《ごはさん》になったってわけか」  底光りする緑色の目を見ながら、淑夜はうなずいた。  たしかに、うかつだった。無影との会見のあと、すぐに戦になり、まもなく〈琅〉に捕らえられ、その庇護下《ひごか》にはいったために、すっかり忘れていたのだ。だが、たとえ無影にその気が失せていたとしても、先の公布の無効を宣言されないかぎり、一般の人間は忘れない。濡《ぬ》れ手に粟《あわ》の恩賞稼ぎがあらわれても、不思議はないのだ。 「城門を閉じろ」  羅旋が、低く命じた。 「どうする気です」 「中の人間を、一歩も外に出すな。こいつらと、それから紀可則はすぐに首をはねて、城内から見えるところにさらせ」 「羅旋、壮棄才どのはまだ、亡くなっては——」 「復讐《ふくしゅう》じゃない。こいつらはいったん降伏しておいて、また裏切った。理由はどうあれ、事実にかわりはない。こういう事態の対処《たいしょ》の仕方は、すでに決まっているはずだぞ」  羅旋のいうとおりだ。それは、何度も話し合い、淑夜も納得し、覚悟したはずだった。だが、現実に直面すると、やはり身がすくむ。 「これが知れれば、今まで開城させた処が一斉にそむく。残してきた兵たちが、皆殺しにされるぞ」  正論だった。 「おまえはともかく、俺は裏切りは許さん。絶対にだ」 「でも、この事態が瀘丘に知れたら、尤夫人の身がどうなるか——」 「それとこれとは、別だ。暁華ひとりと〈琅〉軍の兵の生命とは、ひきかえにできん」  淑夜は、反論できなかった。それどころか、頭の中を一瞬、 (これは、好機かもしれない)  そんな思考がかけぬけたのだ。  麦城内に、現在、いるのは男ばかりだ。それでも罪悪《ざいあく》感は残るが、女子供がいないような城市が他にあるとは思えない。刃向かえばこうなるぞという、みせしめのための犠牲にするなら、これ以上の条件はない。この状況が知れ渡れば、各地に残してきた〈琅〉兵たちも、もっと安全になるし、もっと楽に、少数で管理ができる——。  淑夜は自分の考えに慄然《りつぜん》とした。  だが、それでほんとうにいいのだろうか。  とりかえしのつかないことに、なりはしないか。たとえば、ここで無影とのかけひきに敗れて、〈琅〉へ逃げ帰ることになったとした時、必要以上の恨みをかっていては、助かるものも助からなくなる。 「——条件があります」  淑夜は、頭の中でめまぐるしく考えながら口を開いた。 「実行した者と、責任者である守将の紀可則は、仕方がないでしょう。ですが、罪もない者の生命を奪うことには反対です」 「だが、許すわけにはいかない。それは、おまえもわかっているはずだし、納得したはずだぞ」  羅旋のことばには、噛みついてくるような迫力があった。底光りする翠色の眼ににらみすえられながら、しかし淑夜は懸命にふみとどまった。 「城を焼き払うだけでも、十分、みせしめの効果はあります」 「それだけで、すむか」 「これでは、〈衛〉の人間に恐怖を植えつけるだけです。ことに、今までこちらが占拠した城市の住民には。私に考えがあります。こちらの手にはいった城市を、最大限に利用したいんです。そのためには、心底《しんそこ》憎まれるわけにはいかないんです。すくなくとも、〈衛〉よりましだと思われなければ。今までも、〈琅〉はそういう国だったはずでしょう。それなら、今、麦城の住人を殺し尽くしても意味はない。殺される恐怖や憎悪はとりかえしがつきませんが、財産を奪われるだけならまだ、あきらめがつくし、逆に財産惜しさにおとなしくするでしょう」 「…………」 「狙われたのは私です。犯人の処刑と、城民を捕らえて城内を焼くのは、私が指揮をとります。あとの責任も——他の城市が背いた場合の責任も私がとります。羅旋は黙って見ていてください」 「——待て」  宣言して、踵《きびす》をかえす淑夜を止めて、 「力仕事は、俺がやる。どうせ、馬の出番はないし、おまえのやれることはない。謀士は謀士同士、いっしょにいろ」  淑夜の意見を容認したという意味だったが、淑夜は妥協しなかった。 「処刑は、見とどけていきます」  そこで殺戮《さつりく》が止まるのを確認しなければ、油断はできない。顔色が変わっていたはずだが、羅旋は反対しなかった。  男たちの首は、すぐに城門近くにさらされた。と同時に、〈琅〉軍が城内に雪崩《なだ》れこむ。  城民を城壁の外へ追い出し、食料と目ぼしい財産を運びだしていく。空いた家には、藁《わら》や燃えやすいものを放りこんでいく。 「もう、いいだろう」  青い顔色を羅旋に鋭い目でにらまれて、それ以上は意地がはれなかった。  天幕にもどると、 「おお、もどったか」  五叟老人が、ほっとした顔を見せた。 「矢を抜くんですか」  まだ、不気味なものが刺さっている喉もとをのぞきこんだ淑夜だが、 「いいや。これは、むずかしい」  五叟の意見に、賛成せざるを得なかった。鏃《やじり》には返しがついている。小さなものでも、無理に引き抜いたら、必要以上に肉をえぐり、傷口は確実に広がる。喉もとの血管を、これ以上傷つけたら、失血死しかねないと五叟老人はいうのだ。 「では、どうしたら——」 「切開して取り出すより他、ないの」  それなら、最小限の出血ですむが、 「ですが、その間の痛みはどうするんです」  いっそ意識がないならいいのだが、朦朧《もうろう》とはしているが壮棄才にはまだ、意識がある。傷を切開する痛みに、壮棄才が耐えられるのか。いや、彼なら耐えてみせるだろうが、衝撃を受け血液を失っている身体の方が、保《も》たないだろう。鍛えてはいるが、羅旋のような頑健《がんけん》さは期待できない。彼の平生の顔色の悪さを思いうかべて、淑夜は眉をひそめた。 「棄才どの、どうする」  ぼうと、天幕の一点を見ている壮棄才の耳もとで、五叟は低い声をかけた。  さっきからの会話が、聞こえているとは思わなかった。反応があるとも思えなかったのだが、 「……要《い》らぬ」  たしかに、そう聞こえた。かすれるような声だったが、くちびるの動きと合わせれば、なんとか判別できた。  五叟はその答えに驚きもせず、 「だが、このままでは傷がふさがらぬ。できれば切開したいが、痛みに耐えられるかの」 「無理だ」  たぶん、そう答えたのだろう。かすかにくちびるが動いた。それが、乾いた苦笑になるのを、淑夜は愕然としながら見ていた。 「まさか、棄才どの——」  視線だけが淑夜の方へ動き、また目だけが笑った。陰鬱な、だが得意気な微笑だった。わかったか、といいたげな。  そのとおり、淑夜は思いあたったのだ。  棄才は、淑夜たちより前に、淑夜が狙われる可能性に気づいていたのではないか。にも関わらず看過していた。淑夜が狙われることを、期待していたのだ。  いや、もしかしたら、わざと淑夜の正体を流したのかもしれない。  いくら五城の報奨が生きていたとしても、耿淑夜がここにいる、あれが耿淑夜だと教える者がいなければ意味がない。そして、十五歳で〈衛〉を出て十年以上になる淑夜の顔を、はっきりと指摘できる者は、無影か暁華の他、ほんの数人しかいないはずだ。紀可則あたりが気づいていた可能性もあるが、それをだれかが肯定しなければ、こんな無謀な真似に踏み切らないだろう。  いったん降伏した麦城の人間が、淑夜にかぎらず、〈琅〉軍の人間に危害を加えたらどうなるか——結果は、今、天幕の外で起きている事態、ひとつしかない。麦城を殲滅する、絶好の口実がころがりこんでくる。  壮棄才が、最初から主張していたことを、羅旋にも無断で実行したのだとしたら、話の筋は通る。こちらから仕掛けてでも、見せしめがどうしても必要だと、彼は思ったのだ。  とすると、壮棄才の苛烈《かれつ》な思惑を、ぎりぎりのところで、淑夜は阻止してみせたことになる。壮棄才には悪いが、ほんとうにあやういところで、淑夜は彼の意図を阻止したことになる。安堵のために、一瞬、淑夜は目がくらみそうになった。  しかし、そうなら何故、自分の身で淑夜をかばったのか。  おそらく——。 〈琅〉の人間として、特に羅旋を支持する人間として、淑夜を失うわけにはいかないと判断したのだ。耿無影と対決するためには、淑夜は必要不可欠な人材だ。とすれば——。  壮棄才は、命がけで自分が仕掛けた策の責任をとったのにちがいない。  証拠は、この漢の表情だ。外の怒号が聞こえているなら、何が起きているかはだいたい察知できるはずだが、壮棄才は満足しきった顔つきだった。  だが、疑問はまだある。 「なぜ——」  その疑問を、どう察したのだろう。 「私は、もう、不要だ」  かすかな声が、喉からふりしぼられた。 「棄才どの、しゃべってはならん」  五叟老人の制止を、だが、壮棄才は目の動きで拒絶した。 「私は、助からぬ。病気だ」  そのひと言で、彼が長い間、病を隠してきたと推測できた。それを肯定するように、五叟老人がうなずいたところを見ると、彼だけはずっと前から知っていたのだろう。 「これは……、羅旋への、置き、土産——」 「だから、ご自分の生命を的にしたんですか。羅旋が聞いたら——あなたも、羅旋にとっては必要な謀士なんですよ」  だが、これが淑夜の推測どおりなら、彼は羅旋をも欺《あざむ》いたことになる。それがわかれば、羅旋は壮棄才を処罰するかもしれない。だが、忌避されるとしても、どうしても必要な措置だと彼は思ったのだ。そしてその責任を、生命でとるつもりだったのだろう。 「もう、不要だ。貴殿が、いる」 「私は——」 「すでに、私の——思惑を、覆せるほど、の、立派な、策士だ」  外の音は聞こえているはずだ。勘の鋭い彼のことだ、自分の意図どおりには運ばなかったことは、すでに見抜いているらしい。 「——必要と、あれば、汚い手も使えるだろう。もう、十分だ」  この漢は昔、淑夜に、無影を殺せるかと訊いた。無影の暗殺に失敗して、羅旋に拾われた直後のことだ。  あの時、淑夜はできると思った。だが、実際に直面していたら、どうだったかわからない。それを、棄才は見抜いていたにちがいない。  今、同じ質問をされたら、やはりできると答えるだろう。だが、そのことばの重みはちがう。いざとなったら、どんなに汚い手をつかってでも、無影を倒すつもりでいるし、その決心はおそらく、何があっても揺るがないだろう。 「謀、士は、ふたりも必要、ない。私と同じこと……できる。私ができ、ないことも、〈琅〉を、どんな国、にするかさえ、もう、考えて——」  浅い息が荒くなった。 「私は、滅ぼす、ことしかできなかったが……」 「黙ってください、しばらくでいいから。そんなに一気に話さなくてもいい」  淑夜の顔を見て、またうっすらと笑い、壮棄才は目を閉じた。彼が他人のいうことを、こうも素直にきくのは、めずらしいことだった。 「五叟先生。痛みを消す方法はありませんか。無意識になる薬か、術は」 「助けたいのは、儂も同じじゃ。だが、たとえ薬があったとしても、処方がむずかしい。材料も足りん。術は——そんな便利な術があったら、儂は今ごろ名医とうたわれておるわい」 「——羅旋を呼んできます」  こんな時でも、せめて最期《さいご》を看取ることはできるはずだ。いつから彼が羅旋と行動をともにしていたか、淑夜は知らない。だが、羅旋が棄才を信頼し、棄才もその人生のすべてを賭けて羅旋を補佐しようとしていたことは、知っている。羅旋の影の部分を一身にひきうけ、どんな過酷《かこく》な戦でも要求でも、愚痴《ぐち》をひとことも口にしたことがないことは知っている。  ならば、羅旋にはこの漢の最期に立ち会う義務があるはずだ。  だが、立ち上がりかけた淑夜は、ぐいと引きもどされた。上衣の端が、しっかりと棄才の指に握られていたのだ。瀕死《ひんし》の怪我《けが》人の力とは思えないほどの、強さだった。 「棄才どの」  淑夜は、あきらめざるを得なかった。無理に行こうとすれば、力ずくで争いかねない気迫だった。 「ここに……」  いてくれと、あとは目顔で棄才はいった。 「貴殿に、いてもらいたい。耿家の、人間を、憎み続けて死に……たいのだ。許したなどと、思いたく、ない」  奥歯で噛みしめるように、低く、懸命に言葉がつぶやかれた。 「——耿家を、恨んでおられたんですか」  五叟老人の視線に、重い息を吐きながら、淑夜は応えた。 「最初から、憎まれていたのは知っていました。でも、何故だかわからなかった。初対面の人に憎まれるほど、私は恵まれた環境にはありませんでしたから」  耿家の人間は多い。そして、わずかに血縁の端につらなる者でさえ、耿家の威光《いこう》をかさにきて横車を押していたことも、淑夜は知っている。恨まれるそれなりの理由は、あったはずだが、それでは耿家と彼との間で、いったい何があったのだろう。  少なくとも、壮棄才と淑夜との年齢差を考えると、淑夜が直接、彼の恨みをかったわけではなかろう。それは、棄才もうなずいて、 「貴殿には、関係ない。それでも、耿家の人間と、いうだけで、貴殿が憎かった。それが、次第……次第に、貴殿のいうことを聞いているうちに、知らず知らず、共感を覚え。それが、恐かった。私は、耿家を憎むことを、生きる支えにして、いたのに、憎まなくなったら、生きていく、価値が……」  だから、懸命に淑夜を憎もうとしてきたのだという言葉を、壮棄才は苦しい息の下へ呑みこんだ。 「最後まで、憎ませて欲しい」 「わかりました」  と、淑夜もうなずいた。 「最後まで、ここにいます。ただ、いったい耿家の誰と、何があったかは、教えていっていただけませんか」  つぐなえるものなら——と、淑夜は思ったのだが、 「徐夫余に、すべて話した——」  話しておいたから、あとで聞いてくれというのだ。淑夜は、再びうなずくより他、なかった。  最後まで耿家を憎み恨み続けることで、自分の一生を全うしたいという壮棄才を、淑夜は否定することができなかった。もしも、羅旋たちに出会っていなければ、淑夜もこうなっていたのだ。いや——。 (自分とおなじ道を歩ませたくなかったのかもしれない)  壮棄才もまた、昔の淑夜に自分の姿を重ね合わせていたのかもしれない。  どれだけの時間、そうしていたかわからない。 「火が——」  天幕の外の光の色が、紅く染まったのに気づいたのは、壮棄才だった。 「燃えて、いるな」  淑夜は応えず、棄才もそれを期待してはいなかった。 「これで——いい」  紅い微光が映えた横顔で、ゆるやかに微笑むと、棄才はしずかに息を吐いた。それが、最期の息とことばだった。      (二)  無影は、〈鄒《すう》〉にとどまっていた。  動こうにも動けなかった。  まず、新都を出る時のさわぎで、脱落者が多く出ている。無視して瀘丘《ろきゅう》まで一気に引き返すには、多すぎる数だった。彼らの多くは徴用されてきた歩卒で、これを機会に逃亡した可能性もある。だが、数がそろわないまま国都へもどっても、想定される戦を戦えないと無影は判断したのだ。  その上に、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人・連姫《れんき》が新都を出た直後、高熱を出して倒れた。  もともと、丈夫な方ではない。それに加えて、瀘丘から新都への強行軍に同行し、新都包囲中には不自由な天幕暮らしを長期間、強いられ、戦の喚声をずっと耳にして神経を高ぶらせていた。  新都が陥落したらしたで、まだ血の匂いも漂う城内へはいってまもなく、ふたたび温涼車《おんりょうしゃ》に乗せられて、あわただしく出発しなければならなかった。  屈強な兵でも、疲労の極致にある。ことに、これで休めるとほっとひと息をついた直後の出発は、人々の意気を萎《な》えさせていた。自分の意志でなく戦場へ連れられてきた連姫が、耐えられなくなっても不思議ではない。  ここに冉神通《ぜんしんつう》でもいれば、熱を下げるぐらいのことはできたかもしれない。左道《さどう》の方術《ほうじゅつ》使いだが、医術の腕はたしかだという評判だった。だが、方術をもって接近してきた老人を無影は信用せず、常に瀘丘に残し、商癸父《しょうきふ》配下の吏として働かせていた。今回も、冉神通は戦には同行していない。  その上、連姫は胸の内に新しい鬱屈《うっくつ》をかかえていた。 「うわ言に、陛下のお名まえを呼んでおいでです」  侍女が、泣きながら告げてきた時、無影は一瞬、ぎくりと表情を堅くした。 「そんなはずはない。何かのまちがいだろう」 「いいえ、まちがいなく、陛下のお名まえでございます。どうぞ、一度、夫人を見舞ってさしあげてくださいまし。夫人はなにか、陛下に申し上げたいことがあるか、お訊きしたいことがあるのだと存じます」 「高熱でうわ言をいっているのなら、まともな会話はできるまい。見舞っても無駄だ」 「そこを、なんとか——」  ふだん、無影をこわがって顔を見ようともしない若い侍女が、ひきつった声で訴えるのを、無影は無視した。 「躬《み》と話したいなら、さっさと身体を治すことだ。女ひとりのせいで、軍を動かすことができぬのだ。これで、もしも退路を断たれるようなことがあれば、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人のせいということになるぞ!」  侍女は、顔色を変えて下がっていった。  八つ当たりだということは、無影にもわかっていた。 〈鄒〉は難攻の城市で、百来将軍には絶対の信頼がおける。連姫を残して国都への帰還を急いだところで、万にひとつの心配もないはずだ。百来に守らせて〈鄒〉が陥落するなら、無影がいても同じことだ。無影は、連姫を見捨ててもどるべきなのだ。それをしないのはただ、女への情に流されているだけなのだが、無影はそれを認めたくない。  認められるはずがなかった。  さいわい、新都を占拠した〈琅〉軍はそこで進軍を止め、新都の修復に専念している。〈琅〉軍にしても、曲邑から長途、ろくに休養もとらず、糧食も十分にないまま駆けぬけてきたのだ。兵の疲労は、〈衛〉軍以上だったかもしれない。  城門を破壊された城は、城の価値が半減する。半裸も同然の無防備さだ。無影があのまま占拠していたとしたら、やはり真っ先に修復にかかっただろう。その点も、羊角《ようかく》将軍はよく心得ていた。  調べたところでは、閉鎖された巨鹿関《ころくかん》の中の守将とも連絡をとり、糧食などは義京から運びこませているという。そのくせ、巨鹿関への道を再開させようとしないのは、武器も戦車も放棄して、身ひとつで逃げこむ事態を想定しているからだろう。 「いっそ、〈琅〉と〈征〉の間で、仲間割れしてくれぬものか」  無影はひそかに歯噛みした。  常識では考えられない事態ではない。他国の軍に自国内の通過を許してしまった〈征〉は、けっして心穏やかではないはずだ。しかも羊角は新都にはいるや、〈征〉王の代理として伴われた禽不理《きんふり》をさておいて、我が物顔に切り回しはじめているという。  新都は、いったんは〈衛〉の手に陥ちたとはいっても、まちがいなく〈征〉の領内にある。とりかえしたのは〈琅〉の力だが、〈琅〉のものになったわけではない。羊角の、そして〈琅〉のずうずうしさに、心おだやかでない〈征〉の臣も少なくないはずだ。だいいち、なぜ、禽不理が抗議を申しいれないのだろう。何も起きないのなら、細作《さいさく》を派遣して背後から煽《あお》ってもよい。  今回の突然の和解は、若い魚佩《ぎょはい》をはじめとする朝廷の上層部で、緊急措置として決められたことにちがいない。〈征〉の総意ではないなら、〈琅〉の藺如白を敵と目している〈征〉人はまだ多いはずだ——。  と、無影がいらいらと考え、実行に移す直前だった。 「——城門に、いつの間にか、これが」  と、百来が走りこんできたのだった。百子遂が、太い矢を握りしめてあとに続いてきた。  矢柄《やがら》は紅《あか》く塗ってあった。羽は青。おなじ配色の派手な矢を、昔、無影は見たことがあった。ただし、前回、文字が彫ってあった矢柄に、今回は一字もない。 「名乗らなくとも、わかるという意味か」  矢の主に思いあたって嘲笑《ちょうしょう》をうかべた無影だが、矢にしっかりと結んであった紙片を広げて、顔色を変えた。 「百来、この矢はどちらの城門から射こまれていた!」 「西門でございます。ですから急いで——」 「漆離伯要《しつりはくよう》は、今、どこだ」 「ご命令どおり、城の地下に繋《つな》いで……」 「ここに引き出せ!」 「いったい、何事ですか」  気迫に圧されながらも、その役目は子遂に命じて、百来は無影から筋のとおった話を聞こうとした。 「あの莫迦めが。なぜ、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器を飼っていたと、さっさと白状しなかった!」 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器どのですと? あの、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器どのですか」 「そうだ、あの豕《ぶた》だ」 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人の叔父上ですぞ」 「国を逃げ出した卑怯者だ。血縁の者が、いるはずがない」  乱暴だが、論理としてはとおっている。罪を問われていた罪人が逃亡すれば、残された一族がどうなるか、想像できないはずがない。さいわい、無影の方が連姫に遠慮して、一族にとがめ立てはなかったが、本来なら連座させられてよくて財産の没収、悪くすれば、みせしめのために族滅という可能性も十分にあった。相手は、自らの一族を全滅させた耿無影だ。それを承知の上で逃げたのなら、一族への責任を放棄した——|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》氏とは縁を切ったと見做《みな》すべきだ。  百来は嘆息して、先をうながした。 「それで、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器どのが何をしたといわれますか」 「藺如白を殺した。漆離伯要にそそのかされたと、供述しているそうだ」 「そんな、莫迦な!」  百来が、思わず大声をあげた。 「莫迦とは、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器がか。それとも、あっさりと小人の手にかかった藺如白がか」 「両方です! それと、あの〈琅〉軍です。あれが、王を亡くしたばかりの軍とは思われぬ。曲邑から新都まで脱落もほとんどなく、軍の形を保って突進して来たのですぞ。しかも——」 「あんな思い切った策を、だれが、と躬も思った。藺如白は温厚がとりえで、果断《かだん》、果敢《かかん》ということばとは無縁と思っていたからな。だが、これで謎が解けた。あの戎族だ」 「——赫羅旋《かくらせん》?」 「門閥も財産もない、ただの戎族が、次の〈琅〉王だと」 「なんと——」  これには、百来もあいた口がふさがらなかった。  藺如白が〈琅〉の国主になった時には、その座をめぐって骨肉《こつにく》の内乱が起きている。如白は、れっきとした〈琅〉の国主の伯父だったにも関わらず、だ。藺氏の血族は非常に少なく、姪の揺珠をのぞけば、直系はこれで絶えたも同然だが、 「国相の藺季子《りんきし》がいるだろう。それで駄目なら、元の〈奎〉王の方が、よほど血筋は正しいはずだ。それがなぜ、まったくの他処者《よそもの》、馬の骨同然の戎族なのだ」  無影もまた、絶叫したい気分だった。握りしめた拳が、小刻みに震えるのを百来は認めた。  彼の無念さが、百来にはわかるような気がした。無影は自らの一族を殺し、国主を弑《しい》し、その手を血塗れにして〈衛〉一国を手に入れた。結果、耿淑夜には背かれ、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人の心も離れた。謀叛《むほん》をおさえこみ、大国〈征〉を牽制しながら国を保っていくのは、なみたいていの力ではなかった。じっと時を待ち、〈征〉が自壊したのち、ようやく、中原の攻略にかかったところで、〈琅〉にとんだ出鼻をくじかれて、悔しくないはずがない。  さらに腹がたつのは、〈琅〉一国が、何の努力も苦労もしていない羅旋の手の中にころがりこんだことだろう。少なくとも、無影の中で、羅旋は過小評価されていた。淑夜の存在の方を、意識しすぎていたせいもあるだろう。いや、無理にでもそう思いたかったのだ。事実はけっしてそうではないことを、無影も承知はしていたのだが。 「しかも、戎族があつかましくも、漆離伯要の引き渡しを要求してきている。奴が先王の仇である、それをかくまいだてするなら、〈衛〉もまた、〈琅〉の仇敵と見做《みな》すと」 「なんと、無茶な論理を」 「——淑夜の奴だ」 「は?」 「躬が、戎族ごときの要求に屈するはずがないと見切っての、宣告だ。矢は西の城門といったな。では、瀘丘への道筋に、連中が網をはっているということだな」 「しかし、矢文の使者のひとりやふたり、どちらからでも潜り込んできましょう」 「その矢は、段大牙のものだ。銘はないが、同じものを昔、使っていた。元の〈奎〉王が、単身でここまで来るか」  百来の顔色が、変わった。 「陛下、今すぐ、全軍を率いてご帰還を。〈鄒〉は、某《それがし》が生命に代えてでも守りぬきます故」 「連姫を、どうする」  ふいに、気の抜けたような声が無影の口から出た。百来は耳を疑った。 「たかが、とは申しませぬ。だが、ここでご婦人ひとりのために、これほどの大業を水泡にかえしてしまわれるのか。某は、そんな方に、生命を賭けて仕えたつもりはございませぬぞ」 「婦人ひとりのため、か」  無影の声が、さらに張りを失った。 「そのとおりだといったら、百来、そなた、どうする」 「なんと——」  その場にうずくまるように、無影は片腕で頭を支えていた。一気に、数歳、年齢をとったように見えた。  事実、無影は絶望の淵にあった。というより、突然、虚脱感に襲われたのだ。自分が懸命に守ってきたことは、あの戎族が徒手空拳《としゅくうけん》から身を起こして、簡単に手に入れられる程度の仕事だったのか。だとしたら、自分のこの八年間はなんだったのだ。あの、身を切り刻むような孤独は、心をけばだたせるような緊張は。自分に殺された耿家の者たち、それに先の国主の堰《えん》氏は、無駄死にだったのか。  自分の所業を棚上げする気はけっしてないが、〈衛〉の安定と中原の再統一、そして新しい国を作るのだという目的があればこそ、無影も自分の仕業を正当化できたのだ。それが、今、あっけなく崩れ去ろうとしている。  そして、いまひとつ。  無影は、こんな時になっても——いや、なったからこそ、連姫を手離すことができない自分に、突然気づいたのだ。すべてを失っても、たとえ、彼女がこちらを顧みることがなくとも、絶対に離すことはできない。連姫をわが物にするために、〈衛〉一国を乗っ取ったのかと訊かれれば、たぶん無影は否定しないだろう。どちらも彼の本心で、どこからどうと分けて考えることはもう、できなくなっていた。 「たとえ——」  百来の嗄《か》れた声が、無影の耳もとで低くきこえた。 「たとえ、そうだとしても、陛下には戦っていただかなければならぬ。陛下には、陛下の役割をはたしていただかなければ」 「百来」  真剣な眼差《まなざ》しが、無影の目の前にあった。 「まず、漆離伯要の処刑を。引き渡してしまえば、〈琅〉がわが国を攻める大義名分はなくなりまする。それから、各城市の状況を把握し、それぞれに防備を固めるよう、改めて厳命されるがよい。〈琅〉の連中は足は早いが、攻城戦となればまったくの素人、道具も持っておらず、義京周辺の城を陥としてまわるのに兵糧《ひょうりょう》断ちしか手がなく、半年以上かかっております。さらに、この事態の急展開では、器械があっても運んできてはおりますまい。奴らは短期決戦を狙うはずですが、こちらは自国内の戦です。じっくりと腰を据えてかかれば、いずれ連中は引き上げざるを得なくなるはず——」  日ごろ、武人にしては温厚な百来が熱っぽく策を語るのを、無影はぼんやりと見ていたが、 「相手は、淑夜だ」  低くつぶやいた。 「それが、どうかされたか。刺客としては失敗し、〈奎〉の謀士としても役にたたなかったではありませぬか。恐るるに足らぬ相手じゃ」 「淑夜にしてやられるのは、これで三度目だ。一度目は、単身で斬りこんでくるなどと思ってもいなかった。二度目は巨鹿関の大敗だ。そして——」 「最初から、覚悟なさっておられたのではないのか、陛下。ご自分の一族を滅ぼした時、耿淑夜を義京に残したのは陛下ご自身でありましょうが。暗殺されかかった後、五城の報奨《ほうしょう》を出して行方を追ったのも、すべて、いずれ決着はつけなければならぬことだと、決心しておられたことでしょう。しっかりなされよ、耿無影どの。ここであきらめては、なおさら誰もうかばれぬ」  王の名を呼ぶのは、反逆にも等しい無礼である。しかも、百来は無影の肩に手をかけて、激しく揺さぶった。その場で斬り殺されても文句がいえない所業だが、無影の目を醒まさせるためにはこうするしかないと、百来は覚悟を決めていた。これで他の人目があったら不可能だっただろうが、さいわい、子遂もまだもどってこない。 「御身には、やりかけたことを最期まで全うする義務がある。それが、自滅《じめつ》の道であろうとなかろうと——。それに、耿淑夜は全力をあげてかかってきたのですぞ。御身も——陛下もまた、全力で相手をしてやるべきだと存じます。かつては、理想を同じくした、血のつながった従兄弟どのでありましょう……」  無影の目の色が、少しずつ正気にもどりはじめるのを見て、百来もことばづかいを改めていった。同時に、次第に距離を置き、頭を低く下げていく。 「百来、そなた——」 「数々の無礼、万死に値しまする。どうか、〈衛〉国内に侵入しました不埒者《ふらちもの》らの掃討《そうとう》を、某にお命じくださるよう。戎族めの舌先に躍らされてわが国を狙う者どもを、蹴散らしてまいります」 「待て——」  無影の両眼の焦点が、ぴたりと合った。 「百来将軍が出るまでもない。そなたの〈鄒〉不在が知れれば、新都の連中がここまで雪崩れこんでくる。それより、漆離伯要に手勢を与えて解き放て」 「なんと——」 「〈琅〉の手で討たせればよいのだ。こちらが手を汚してやる必要はない。伯要が勝てば、それはそれでよいわけだ」 「おお」  百来の顔に、喜色《きしょく》がもどった。これでこそ、この狡猾《こうかつ》さこそ、耿無影だ。 「ですが、もしも奴が敵に寝返ったら——」 「有り得ぬ」  百来の心配を、無影は一蹴してみせた。 「たとえ、〈琅〉に一時的に受け入れられたとしても、いずれ罪を問われる。それがわからない伯要ではない。〈衛〉でなければ、そして〈衛〉が勝ち抜かなければ、おのれの未来もないと承知しているだろう」  そこへ、子遂がもどってきた。  漆離伯要は、拘束こそされていなかったが、げっそりとやつれていた。心労のためもあるだろうが、やはり置かれていた環境が劣悪だったのだろう。無影をにらむ気力も失せたようすに、百来の白い眉がしかめられた。  こんな状態で前線へ送り出しても、兵を殺されるだけ損なのではなかろうか。  だが、無影は先ほどの自分の案を、取り下げる気はないらしく、 「まだ、〈衛〉に仕える気はあるか」  皮肉な調子で、訊ねたのだった。  対する漆離伯要も、露骨《ろこつ》に不愉快な顔つきを隠そうともせず、 「私に、どこへ行けとおっしゃる」  新都の攻略に功のあった者として、捕虜の前でさらし者にされた以上、〈征〉へもどれば裏切り者としての死が待っているだけだ。 「そうだな。そして〈琅〉へ行けば、今度は先王殺害の張本人として殺される」 「なんですと?」  彼もまた、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が行方不明になったことまでは聞いていたが、それから先の展開は何ひとつ知らなかった。  無影に、矢文をつきつけられて目を丸くし、ついで、青くなった。 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器が、〈琅〉王を——」 「あの男は豕《ぶた》も同然の腰抜けで、役立たずだったが、こんな形ででも中原の歴史を動かすことはできたのだな」  暗に、伯要を煽動しているのはすぐわかった。あんな小人ですら、これほどの大事をひきおこしてみせたのだ。一国の摂政までつとめたほどの人物なら、と。 「何をせよと、申される」 「〈琅〉の馬どもが、わが国の中にまぎれこんでいる。めざわりだ」 「掃討せよと?」 「兵ならば、貸しおく。おのれの手で蹴散らしてみよ。それで勝てれば、〈衛〉はそなたを受け入れ、かばいとおしてやろう」  当然、討たれればそれまでだ。要するに、おのれの命運はおのれの実力で切り開いてみよと、無影はつきつけてきたのだ。 「よろしいでしょう」  くちびるを噛みしめながら、伯要はうなずいた。実績もなく受け入れてくれというのは、たしかに虫のよすぎる話だ。かといって、新都の攻略を、おおっぴらに手土産にするわけにはいかない。〈衛〉国内ですら、伯要のあからさまな裏切りを快く思わない者は多いのだ。  見たところ、無影はこの〈鄒〉から動きかねている。その真の理由が|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人の病気だとまでは、さすがの彼もわかりかねたが、それでも恩を売っておく機会だとは判断できた。 「お引き受けいたしましょう。そのかわり、兵は私に選ばせていただきたい」 「好きにしろ。ちなみに、当面の相手は、おそらく段大牙だ。心してかかるがいい」  野狗《やく》が羅旋の天幕を訪ねてきたのは、麦城が無人の廃墟となって三日目のことだった。  むろん、深夜のことである。  羅旋たちは、麦城を焼いた後、一部の兵を残して、即座に瀘丘近くに移動して方子蘇の軍と合流している。  ちなみに、麦城の民たちには、必要最低限の食料だけ持たして、他の城市へ分散させた。集団で収容する場所もなかったし、集めて拘束しておいては、不満が増大するからだ。途中で逃げる者は、敢えて放置した。ひとりふたりで逃げたところで、抵抗する力にはならない。むしろ、城民を煽動しかねない者が、自分からいなくなってくれるなら歓迎だ。  方子蘇との合流は、淑夜が勧めた。 「こういうものは、連絡をとりあっていればいいというものではありませんし。ただし、忠誠を誓わせるのではなくて、方将軍に対して、こちらから誠意を示すんです」  壮棄才の件で気落ちを見せているが、淑夜はしっかりと先を見据えるようにいった。五叟も、うなずいてみせた。  蒼嶺部の左車とも落ち合って、馬を受け取らなければならないし、後の補給のことも相談しなければならない。  左車が貸してくれるという二百頭の馬は、どれも西方の草原でのびのびと走りまわってきただけあって、気は少々荒いが駿足《しゅんそく》ぞろいだった。 「馬に乗れるようになっておくのも、悪いことではないかもしれぬな」  と、馬たちにつくづくと見惚《みほ》れながら、方子蘇がいったぐらいだ。  彼は飛雲坡《ひうんは》の一戦で、戦車の限界を感じ取っていた。今はまだ戦車が主流でも、機動性にすぐれる馬は、戦のための乗り物としてはたしかに魅力だった。  飛雲坡では、方子蘇は徒歩で戦った。あれはあれで、有効な方法だったと思っているし、「将にふさわしくない——」と眉をひそめる者は〈琅〉にはいない。結果がすべてなのだ。  だが、歩いて戦ってみて、方子蘇はその視点の低さと、他者から受ける威圧感におどろいた。今まで、戦車の上から敵兵を見下ろしてきた彼にとっては、世界観が変わるほどの出来事だった。あれに比べれば、馬の方がはるかに——戦車よりも視点は高い。その点からいっても馬は有利だと、方子蘇もまた思い知ったのだった。  とにかく、方子蘇や左車と合流し、簡単にこれまでの経緯とこれからの方針、瀘丘の状況などを聞き取ったあと、羅旋がひとりでひきとった天幕に、野狗は見慣れた角張った顔を見せたのだった。  ちなみに、野営中とはいえ、敵の本拠を目と鼻の先にした地点の王の住居だ。徹夜の見張りは隙なく立っている。 「俺も、そのうち、如白どのの二の舞かな」  苦い顔をする羅旋に、 「それより、ふつうは寝込みを襲われたら、もっと大騒ぎするもんですけどねえ。『曲者《くせもの》』とかいって」  野狗は、嘆息した。  もっとも、脅かしがいがないといって嘆く曲者もふつうではない。もちろん羅旋も、彼ほどの腕の曲者が他にいないと知っているからこその余裕だった。  羅旋はこの野狗とは、旧知の中である。彼が尤家に雇われていた時代、野狗もまたその並みはずれた駿足と、どこへでも忍びこむ特技を暁華に買われ、仕事を請け負っていた。羅旋自身、自立をはかったころ、何度か彼の手を借りている。だから、 「仕方あるまい。知らない奴が相手なら、俺だって一番に斬りつけているさ。それで、暁華はどうしている」  どうせ、その件だろうといわんばかりに訊くと、ふたたび野狗はいやな顔をして、 「少しは、心配そうな顔でもしてくれませんかねえ、旦那。これじゃ、帰った時にとりつくろいようがない」  仮にも〈琅〉王の羅旋を、昔と変わらず『旦那』よばわりする野狗に、さらに羅旋は苦笑した。 「適当にごまかしてくれればいいじゃないか。おまえのほうこそ、昔なじみのかいがないぞ」 「虚言《うそ》をいったって、あのお方にはすぐにばれちまいまさ。ご存知でしょうに」 「それもそうだな。それで、元気か」 「それだって、わかってるでしょうが。おいらが、縁起でもない知らせをわざわざ知らせに来ると思いますかい? 隠しておいたって、いずれ知れることですぜ」 「違いない」 「夫人は、ご無事でさ。香雲台《こううんだい》に、なかば幽閉みたいになってますがね。でも、商癸父の奴には、尤夫人に手をかけるような度胸なんぞ、ありませんて。さんざ、脅しはかけているようですがね。ただ、夫人に何事かあったら瀘丘がどういう目に遭うかは、わかるようですからね」 「そうか。一応、報復が暁華に行かないかとは、心配したんだが、杞憂《きゆう》だったな」 「でも、怒ってましたぜ」 「あいつは、わかっているさ」  羅旋は、首をかるくすくめてみせた。 「それで? 瀘丘の内部のようすは?」 「それなんでさ。商癸父という野郎が、ああまで莫迦《ばか》だとは思わなかった」 「おまえにいわれちゃ、みもふたもないな」 「これは、尤夫人の台詞《せりふ》でさ。麦城が炎上したとは、瀘丘にもすぐ報告があったんですがね。状況がわかったとたん、がたがた震えだしちまって、話にならない。で、第一に何を始めたかっていうと、瀘丘に残っている士大夫たちの手元から、兵をとりあげはじめた」 「ふむ」 〈衛〉軍、というが、王の直属の軍の割合は少ない。国への税の一環としての徴用兵がそれにあたるが、これは平時の場合だから数は多くない。いざ戦となれば、士大夫たちが自分たちの所領から農民を駆り出してくる。その士大夫を編成して、何万という軍勢ができあがるのだ。つまり、〈衛〉軍とはいうが、その実態は士大夫個人の私兵の寄り合い所帯なのだ。  士大夫たちが王に臣従するのは、そのひきかえに所領を得ているからだ。だから、戦となれば王の命令に従う義務があるわけだが——。 「そこんところを、あの若僧は思い違いをしたらしいんで。士大夫は無条件で〈衛〉王に仕えるもので、自分は〈衛〉王から権力を委任された者だから、連中は自分の命令をきかなけりゃならないと、ね」  非常の場合だ。軍事権の掌握を考えるのは当然だ。羅旋も、ついこのあいだ、同様の経験をしたばかりだ。  藺如白の遺言があったとはいえ、あれで羅旋の兵力が、たとえば羊角より少なかったらどうなっていたか。羅旋がとりあえずとはいえ、〈琅〉一国の権力を掌握できたのは、廉亜武《れんあぶ》と方子蘇、それに段大牙が支持に回ってくれたおかげもあるが、羅旋自身が五千の騎馬兵の指揮権を、直接、握っていたのも大きな要因だったはずだ。  だが、それは決して強引に奪いとったものではない。だいいち、士大夫と庶民の区別が今ひとつ不明確な〈琅〉と、古い士大夫層をそのまま温存している〈衛〉とでは、わけがちがう。 「どうやら、無影の奴が、そういうことを考えていたらしいんですがね。いずれ、士大夫連中は棚上げにして、軍は王が直接、命令する——という風に。たしかに、その方が便利だし、たぶん軍の統制もとれるんでしょう。今のままだと、王さまといえど、士大夫連中に背かれたら丸裸も同然だからね。だが、さすがの無影だってまだ、そこまでは手をつけてなかったっていうのに」 「士大夫どもも、黙っちゃいないだろう」 「ええ、そしたら、今度は問答無用で投獄ですよ」  行動は、さすがに迅速《じんそく》だったという。  瀘丘に残っていた士大夫たちが、不穏な動きを見せはじめたとたんに、王宮の警備兵を動員してめぼしい者たちを拘束してしまったのだ。士大夫を捕らえてしまえば、その配下の兵たちは動きがとれない。彼らは、自分で考えて行動することを知らないからだ。 「まあ、ここまではまだ真っ当な判断かもしれませんがね。ただ、この先、あの血迷った莫迦が何を始めるか、おいらにも予想がつきそうな気がするんですがね」 「粛清《しゅくせい》か——」 「まあ、いずれはこうなったとは思いますぜ。無影が作ろうとした国の仕組みには、連中は不要だったですからね。不平不満しか口にしない莫迦どもを、無影が長いこと飼っておくとは思えない」 「夜盗のおまえの方が、よほどものが見えているじゃないか」 「おいらをからかってる場合じゃないです。そのうち、瀘丘の内はすさまじいことになりますぜ。尤夫人の身はとりあえず無事でしょうが、安心はできない。早いところ、救い出すか、あの莫迦を止めるかしないと——」 「俺としては、城内で仲間割れをしてくれる方が、ありがたいんだが」  いいかけて、野狗の情けなさそうな顔を見てあわてて止めた。そして、 「止めるには、ふた通りあるが」  どっちがいい、と目顔で訊いた羅旋に、とぼけた表情で野狗は応えた。 「そりゃあ、そっちの考えることだ。おいらはただ、現状を伝えに来ただけですぜ」 「ふむ、まあ、とりあえず暁華の奴をなだめるためにも、救出の真似事ぐらいはしておこうか。——五叟、盗み聞きは悪い癖だぞ」 「なにをぬかす。おぬしのために、ひと膚《はだ》脱いでやろうというのに」  入口の垂れ幕を最小限に持ち上げて、小柄な老人が這うようにはいってきた。野狗も、五叟老人はよく知っているから、この程度ではおどろかない。 「行ってくれるか」  羅旋が念をおすと、 「儂《わし》が行くより他、あるまい。淑夜は、今しばらくそっとしておいてやりたいしの」  表面的には淑夜は平静そのもので、本営の移動作業も淡々とこなしていた。だが、結果的に壮棄才を死なせたという意識が、ないわけではない。  おまえのせいではないというのは簡単だ。実際、壮棄才は淑夜を危険な囮《おとり》に使い、その責任をとっただけだ。  しかも、その目的は、決して誉められるものではない。結果的には、羅旋ですらまんまと乗せられて、惨い戦をさせられたのだ。おそらく、羅旋も口にはしないものの、その事実には気づいている。  だが、他人がことばでいくら慰めても無駄なことを、彼らは皮膚感覚として知っていた。本人が思い切るしかないし、それには時間が必要なのだ。こんな深夜に呼び出して、策を論議して負担を増やしては、立ち直りが遅くなってしまう。 「ただし、今回は助け出せる可能性はほとんどないぞ。儂らは身軽に、どこでも忍びこめるが、いくら尤夫人でもまさか、屋根の上へは昇れまい」 「無理だろうなあ」 「ま、まず儂らが行って、とりあえず夫人をなだめておこう。ついでに城内のようすも見てこよう。脱出させる場合の、参考にはなるじゃろう」  そういうと、五叟老人は入口とは逆方向の天幕の端を持ち上げた。 「ほれ、行くぞ、野狗」 「今からですかい?」  野狗は、あからさまに嫌そうな顔をしたが、そのわりには軽く腰をあげた。 「早い方がいい。一日ちがえば、情勢も変わるぞ。なにせ、一夜明けたら、戎族の無頼者が一国の王になって、今や中原を統一しようというご時世じゃからの」  五叟老人ならではの、皮肉だった。羅旋は、自分が戎族であることを恥じたことは一度もないし、だれにからかわれても平然としているが、戎族を蔑視《べっし》するような言動は、けっして許さない。 「俺が中原の王になれば、戎族も中原で大手を振って歩けるようになるさ。飛雲坡の功績の第一等は左車だし、この先も、あいつの力を借りることになるだろう。これから、大牙の援護にまわらせることにしている」 「そのうち、戦車の上でふんぞりかえっている時代遅れな士大夫どもは、用済みになってひからびるより他、なくなるだろうよ」  黄色い歯をむき出して笑いながら、五叟老人は天幕の端をするりとくぐった。野狗が困ったような苦笑をちらりとふりむけて、その後に続く。  それを見送ると、 「さて——もう、ひと眠りするか」  心配をしていても仕方がないとばかり、羅旋は、そのまま、何事もなかったかのように眠りに就いたのだった。 「あたしのことは、心配無用です」  暁華も、深夜に忍びこんできた野狗と五叟老人に、おどろきもせずに答えた。婦人の寝室だからとか、こんな時間にといった無駄な抗議はいっさいせず、 「あたしに何かあったら、瀘丘どころか〈衛〉国内の商人すべてが、無影さまに離反いたします。そうなれば、商癸父も無事にはすみません。それぐらいのことは、あの男にもわかっているでしょう。無影さまの意を迎えること、無影さまに認められることしか、あの男の頭の中にはありませんから」  と、冷静にいってから、 「どうせ、羅旋はあたしのことなど、案じてはいないでしょうけど」  声はひそめていたものの、楽しそうに笑った。 「それに、少し思うところもあるのですよ。できれば、もう一度、無影さまと話をしておきたいと思っているのです。だから、羅旋が無影さまを瀘丘に無事に帰還させてくれると、ありがたいのですけれど。そう、伝えてくださいな」  逃げ出したくないという人質もめずらしい。 「とにかく、裏表双方から、城外へ出られるよう算段するからの。そのつもりで」  五叟老人が、そういうのがやっとのことだった。 「やれ、女傑というのは、扱いが面倒じゃな。昔、玉公主を助け出しに行ったことがあったが、あの時の玉公主は素直で可憐《かれん》であったぞ」 「そう、女がみな可憐なだけでも、困るでしょうよ。それに、今の公主さまはなかなか——恋しい漢について戦場を走り回るようなお人だ」 「ちがいない。そのうち、女たちは全部、馬に乗って戦に来るような女丈夫《じょじょうふ》ばかりになるだろうよ」 「そりゃ、困ったなあ」  へらず口をたたきあいながら、ふたりは香雲台から抜けだした。  五叟は、外見は八十歳はゆうに越えていようかという老人だが、身のこなしは野狗にひけをとらないぐらい軽い。たしかに、この役目は羅旋でも淑夜でもつとまらない。その上に、彼にしか対応できない邪魔がはいった。  ひときわ高い塀を乗り越えようとして、野狗が、 「やばいですぜ、先生。みつかっちまった」 「衛兵か」 「爺さんに見えますが」 「——ちっ」  羅旋ほどではないが、野狗も五叟老人もそこそこに夜目がきく。塀の上に立っている人間の姿も、あらかた見てとった。その上で、五叟老人は「嫌な奴に会った」という顔を露骨にしてみせた。むろん、相手も夜目がきくことを承知して、わざと作ってみせたのだ。 「莫窮奇《ばくきゅうき》、のこのこと出てきたからには、覚悟があろうな」 「ったく、面倒な奴じゃ。なにも、こんなところに出てこなくともよかろうに」  ぶつぶつと文句をいいながらも、五叟は緩慢な動作で、塀の上にたちあがった。 「五叟先生——」 「おまえさんは、どこかに隠れてるがいい。おまえさんの手に負える相手ではないし、儂に何かあったら、それを報告してもらわねばならんからな」 「あいつは、誰なんで?」  瀘丘の尤家にはよく出入りしていた野狗だから、〈衛〉の朝臣たちの名はある程度知っているが、無影が側近としてかかえている人間は一部しか知らない。まして、右筆《ゆうひつ》まで知っている必要はなかった。 「儂の兄弟子《あにでし》で、冉神通《ぜんしんつう》という悪者じゃ。まあ、昔から儂をいじめるのだけが生き甲斐《がい》という、暗い奴でな。ここまでつきまとっておるというわけじゃ」 「兄弟子ということは、方術つかいで?」 「儂と同じと思うなよ。儂のように、方術の限界を知って謙虚に生きておる人間とは、性根がちがう」 「何を、くだらぬことをいっておる。まともな術ひとつつかえぬうちに逃げ出した、半人前のくせに。西方で、戎族めの前ではいつくばっていればよいものを、儂の目の前に現れたからには、無事に帰れぬと思え」  冉神通もまた五叟と同様、痩《や》せて小柄な老人だった。五叟よりもさらに痩せて骨ばかりで、目つきが暗く、下から睨みあげるような気味悪さがあるのは、不遇が長く、鬱積したものがあるからだろうか。  もっとも、五叟にいわせると、 「なに、あの耿無影の顔色をうかがいながら、うしろ暗い仕事ばかりしていたせいだろうよ。何十年も昔のことを持ち出さねば、儂より優位に立てぬのじゃ。哀れなものじゃよ」  ということになる。 「儂ほどの活躍は無理でも、少しは外へ出て身体でも動かせばよかったのにのう」 「能書きはいいから、先生。ほれ、前だ」 「いいから、下がっておれ」 「じゃ、俺は先に行きますぜ」  野狗は、五叟老人の背後を、老人を盾にしてすりぬけた。塀の下の闇の中へ完全にまぎれて、気配もすぐに消したが、目の前の五叟だけを標的にしている冉神通は、見ようともしなかった。  だが、野狗が消えたあと、突然、五叟がぴくりとも動かず、ひと言もきかなくなったのを見て、さすがに妙だと感じた。 「どうした、莫窮奇。逃げぬのか」  身がまえながら訊いたことばに、 「…………」 「なに——?」  質問とほぼ同時に放った電雷が直撃したにもかかわらず、五叟は悲鳴ひとつあげなかった。ぐらりと丸太のように倒れ——いや、実際に、黒焦げになった丸太が、ごろりと塀の上から転げ落ちたのだ。 「換身《かえみ》か——」  身代わりを方術で自分にみせかけ、すりかえて置いたのだ。替えたのは、おそらく野狗が通りぬけた、あの瞬間しかない。五叟こと莫窮奇が、小手先の方術が得意だったことを思いだしたのは、その後だ。いや、憶えてはいるのだが、いつも巧妙に注意をそらされ、だまされるのだ。  下位にあると思っていた人間に、いいようにあしらわれたことに、彼はようやく気づいたのだ。 「おぼえて……」  地団太をふんで叫んだものの、すでに無駄だとはわかっていた。ただ、実力が開いたことを、認めたくはなかった。 「覚えているがいい。今度、儂の目の前に現れるようなことがあったら、その時は本当に、おまえの最期じゃ!」  もっとも、陰で逃げたふたりがささやきあっていたことばを聞けば、さらに怒りがつのっただろう。 「怒らせちまいましたぜ、完全に。いいんですかい、執念深そうな爺さんですぜ」 「よいよい、これで戦にでもなれば、頭に血がのぼって、とんでもないことをやらかしてくれるじゃろう。それが、儂の目当てじゃよ」      (三)  漆離伯要の軍——というより、伯要の護送隊は、〈鄒〉を出ると、とりあえず西へ向かった。〈鄒〉から瀘丘までの間に、〈琅〉軍が入りこんできているのは確かだが、その居場所をさがし追撃するような能力は、伯要にはなかった。 〈衛〉の国内にはいったところで、伯要は野営を命じると、そこで数泊するように、急ごしらえの配下に告げた。 「どこに敵がいるか、わからない状態ですぞ。そんなことをしたら、襲ってくれといわんばかりです。せめて、近い邑に駐屯して防備を固めた方が」  疑わしそうな目に対して、伯要は尊大な口調で、 「私が〈鄒〉を出たと聞けば、段大牙はかならずあらわれる。大牙が現れなければ、赫羅旋が来るにちがいない。段大牙か、赫羅旋か、どちらかをうまくとらえるか殺すかすれば、一気に形勢は逆転する。今、そうするには、大将首を狙うしかないのだ」  ——もっとも、虚勢をはったものの、自分に戦の才能——特にかけひきに関しての才能が乏しいのは自覚している。 (赫羅旋や段大牙らと正面きって戦をしても、勝てないことはわかっている。ただ、生き残れればいいのだ)  できれば、大牙あたりが見逃してくれることを期待していたのだが。  期待に反して——あるいは応えて、『段』の文字をうきあがらせた旗が襲いかかってきたのは、野営を始めて三日目のことだった。 「は、速い——」  騎馬の速度は、十分に知っているつもりの伯要が、思わずうめいたほど、その一隊は速かった。 「射て! たかが、二百ほどの小勢だ。近づく前に射ち落としてしまえ」  伯要の命令が出るより前に、すでに雨のような矢がとびかっていた。こちらは千人からの兵をそろえた。全員が弓を扱えるわけではないが、数の上からは負ける道理がない。  しかも、野営地は場所を選んで、小高くなった丘の上だ。矢を射るにしても、車で駆け降りるにしても上からの方が有利なのはいうまでもない。馬にしたところで、下から駆け上がるのは余計な負担にちがいない。さらに——。  伯要は、野営の周囲をわざとがらあきにしておいた。戦車を盾のように円陣状に配置したほかは、土塁もろくに積まず、溝も掘らなかった。少なくとも、馬にとって障害となるような高さ深さにはしなかった。  油断——もしくは騎馬の力を侮っているという風に見せるのが目的だった。  これが羅旋なら、もう少し慎重に攻めかけていただろう。少なくとも、一国の策士を自認していた男が見せる油断ではない。だが、大牙にはその点の認識が甘かった。少なくとも、『段』の旗は一気にゆるやかな斜面を駆け上がってこようとして——。 「なに——?」  指揮を執るために中軍に位置していた大牙は、馬の上で腰を浮かした。  先頭を切って走っていた一群、十騎ほどが、ほとんど一斉に前へつんのめったのだ。馬の前脚が、同時に折れたような、激しい転び方だった。  騎手たちは、襤褸《ぼろ》のようにさらに前へ投げ出され、大地に激しくたたきつけられる。突然のことで、十分な体勢もとれなかったために、その瞬間、魂切るような悲鳴があがった。  人ばかりではない、馬たちの脚も宙を掻《か》いたまま、起き上がれない。おそらく、骨折した馬もいるのだろう。馬のかん高いいななきが、非常事態を告げていた。  ほかの者たちも、ただ手をこまねいて見ていたわけではない。直後を追っていた騎兵たちは、前の馬がころぶのを見て、とっさに手綱《たづな》を引いた。あまり急で乱暴な命令に、馬は竿立《さおだ》ちになり、中には振り落とされる者もいたが、こちらは覚悟の上の動作だ。さからわずに落ちてもすぐに立ち上り、馬の手綱を押さえて鎮《しず》めてやれた。  落馬をまぬがれた者たちは、その位置から矢を射続ける。落馬した者たちの援護である。もっとも、そこから先へは出ようとはしない。どうやら、足もとに何かあると、直感的に気づいたのだ。その間に、後から落馬したうち、無傷の者らが矢の中をかいくぐって怪我人たちのところまでたどりつく。  中のひとりが、さらに走りながらつまずいて、 「——縄だ!」  大声をあげた。  野営地の周囲、地面すれすれの高さに、縄が、何重も張りめぐらせてあったのだ。人の膝下《ひざした》まである草に隠れて、縄は見えない。だが、馬の脚をさえぎるには十分すぎる。 「畜生!」  初歩的な罠にかかったことに気づいた大牙は、口汚く罵ったが、すぐに、 「退け、退け! 馬はいい、怪我人だけを救い出せ!」  噛みつかんばかりの激しさで、命じた。  脚を骨折した馬は、可哀想だが見捨てるしかない。おそらく、治療をしても走れるようにはならない。馬の体重、さらにその速さを支える脚には信じられないほどの負荷がかかるのだ。一度骨折した脚は、それには耐えられない。  ——昔、羅旋が骨折した愛馬の追風《ついふう》を、一刀のもとに殺してのけたことがあった。それが惨いと淑夜は羅旋を責め、結局、一度、袂《たもと》をわかつきっかけとなった。あの時、大牙は淑夜をなだめる役に回ったが、内心では淑夜の嫌悪も無理もないと思っていた。  今なら、大牙も、そして淑夜も羅旋の行動が理解できる。長く苦しませるより、ひと思いに殺してやった方が、馬のためなのだと。  今もほんとうなら、馬の怪我の状態を調べ、とどめを刺してやるのが飼い主たちの義務なのだろうが、その余裕はなかった。走れるなら、馬たちは自分で仲間のもとへ帰ってくる。彼らは、群れで行動するものだからだ。それができないなら、見捨てるより他ない。  一方、人間を回収しろと特に命じたのは、捕虜にとられて、こちらの行動が筒抜けになるのを恐れたためだ。  上から、してやったりと駆け降りてくる〈衛〉兵には、騎馬兵の援護の矢が遠慮なく見舞われた。彼らは、走る馬の上からでも矢を射ることができる。戎族を真似た訓練の結果である。むろん、戎族ほどの腕はないが、的中率は悪くない。  徒歩の兵が、怪我人を縄の罠の外にひきずりだした後は、騎馬の連中が軽々とすくいあげた。  大牙は簡単な命令しか出していないのだが、だれが、どう、と相談するわけでもなく、それぞれが臨機応変に動いて、全員が退却にかかるまで、気がついてみれば一瞬の夢のようだった。 「悪夢だぜ」  顔をしかめて、大牙は吐き捨てたが、 「それはあちらも、おなじことでしょう」  後から合流してきた徐夫余が、冷静に応じた。 「それで、負傷者は? 損害は、いかほどですか」 「仕掛けにひっかかった怪我人はちょうど十人。うち、馬に乗れない重傷は三人。ほかに、ひとりが死んだ。首の骨を折ってな。矢傷は、数えるだけ無駄だ」 「馬の損害は?」  憮然《ぶぜん》とした表情の大牙に対して、徐夫余はあくまで落ち着いている。痛ましそうな表情は本心からのものにまちがいないが、だからといって嘆いているだけでは、何も始まらないのだ。 「七頭」 「縄を、走りながら切るというのは、むずかしいでしょうね」 「ゆっくり、歩きながらならなんとかならないでもないが——伯要の奴、装備だけは十分に持たされている。馬などというでかい標的がのこのこ歩いていては、矢の雨だし、馬がかわいそうだ」 「では、徒歩でやりましょう。盾の陰に隠れればいいんです。歩卒に近づいてくる敵兵は、後方からの騎射で倒せるでしょう」 「囲んでいれば、そのうち、水も糧食も矢も尽きると思うぞ。あの縄があるかぎり、あいつらの戦車だって、外へ出てこられないんだからな」  めずらしく大牙が慎重になったのは、こんな形で部下を失ったのがよほど衝撃だったからだろう。徐夫余は、おだやかな口調は崩さず、 「ここは〈鄒〉の目の前ですよ。耿無影は、漆離伯要を囮《おとり》にして、私たちを釣り出すつもりに決まっています。短期で勝敗を決められなければ、すぐに退くべきです」  諭すように、大牙の顔をのぞきこんだ。大牙も長身だが、人なみはずれた徐夫余がそうするためには、身体を傾けなければならなかった。 「おまえ——」  大牙は逆に、首を傾けて見上げながら、 「いつのまに、そんな策士《さくし》になった」  正直に呆れた。  徐夫余はもともと、〈奎《けい》〉の農民の子である。兵役中にその誠実でしっかりとした気性《きしょう》を見いだされて、まず〈奎〉で抜擢《ばってき》され、〈奎〉が滅亡した後は、羅旋に従って頭角《とうかく》を現した。戦場で変幻自在《へんげんじざい》に動く柔軟さは、〈琅〉でも高く評価されているし、民政を任せても、その篤実《とくじつ》な性格で人々に慕われているというが、策士の一面だけはないはずだった。  旧主にまじまじと見つめられて、徐夫余はあわてた。 「私ではありません。すべて、淑夜どののいわれたことです」 「俺は、何も聞いてないぞ」 「大牙さまなら、ご自分でおわかりだと思ったんじゃありませんか。私は説明していただかないと、わかりませんから」 「うまく逃げたな。——それで、盾の用意をどうする? ここには、なにもないぞ」 「至急、作らせています」 「ここでか?」  たしかに、近くに山はあるが、木を伐り出し、板にしていては時間がかかる。しかも木工のための道具など、持っているはずがない。 「何も、木の板や鉄で作る必要はないんです。矢を防げればいいんですから。この周辺の山には籐《とう》がいくらでも生えています。それを採ってきて、編むんです」  ぶかっこうだが、なにしろ軽い。作り方さえ知っていれば、時間もかからない。隙間だらけに見えるが、これで矢も防げれば、刃も十分に止めてしまうことを、大牙は翌日には目のあたりにすることになった。  片手で平たい笊《ざる》のような盾をかざしながら、歩卒らがゆっくりと歩く。彼らは、ただ矢を防ぎながら、縄を切っていけばいい。その背後にいる援護の騎馬の兵が、近づく〈衛〉兵に騎射で矢を浴びせる。 「あの盾も、淑夜の発案か」 「壮棄才どのです。いずれ〈衛〉に攻めこむのだから、その地に合った戦の仕方があるといって、調べておられたんです」  なるほど、籐は北にはほとんどないが、南方の山間には豊富な材料だ。南の蛮族が、盾のみならず、胴甲まで籐で編んで作ると噂で聞いたことがある。その材料をわざわざ、青城までとりよせて、壮棄才は工夫していたのだという。 「——みごとなものだな」  壮棄才が没したことを、この時点で大牙たちは知らなかった。  漆離伯要も、縄の数本だけで完全に馬を止められると思っていたわけではない。自陣の周囲にはいくつも陥穽《かんせい》を掘り、準備はしていた。だが、これほど早く大牙たちが縄の障害を突破してくるとは思っていなかった。  騎兵は基本的には盾を持たない。急ごしらえの盾を作ってくるにしても、数日は時間が稼げると計算していたのだ。その間には、〈鄒〉から援軍が来るはずだった。  だが、縄はあっさりと切られ、その歩卒たちの手によって陥穽も簡単に発見され、避けられてしまった。地上から見れば、掘り返した後は一目瞭然だったからだ。  戦意を無くした〈衛〉兵たちが、いっせいに逃げまどったのはいうまでもない。もともと、伯要の麾下《きか》でなく、借りてきた兵だけに、他国者の彼の制止はまったく効果がなかった。  ほとんどの兵が、〈琅〉に捕まる前に四方八方へ逃げ散った。彼らにとって、ここは故国の一部だ。逃げこむ場所には事欠かない。地理にも不案内な漆離伯要だけが、逃げたものの隠れる場所もなく、結局、徐夫余が率いる〈琅〉兵の捜索網に簡単にひっかかって、捕らえられた。  伯要にとって不運だったのは、その昔、徐夫余が〈征〉に使者にきた時に、直接、顔を合わせていたことだ。一兵卒に身をやつしていたのだが、顔を見た徐夫余は、すぐにそれがかつて、魚支吾の隣にあったものと確認した。 「やっと、お目にかかれましたな」  高手小手に縛りあげられた漆離伯要に、大牙は皮肉をいわずにはいられなかった。 「長い間、いろいろと世話になった。この度は特にな」  一国の国主だっただけあって、やろうと思えば大牙はいくらでも慇懃無礼《いんぎんぶれい》な態度がとれる。神経を逆なでされているのだとわかっていても、 「私が命じたわけではない!」  思わず伯要は、必要以上に激しくいい返していた。 「結果的には、そうなった。誤解しないでいただきたい、漆離伯要どの。俺はむしろ、感謝しているのだ」  伯要は、大きく目を見開く。その顔に向かって冷笑を送りながら、 「いや、先王には恩義もある。心服もしていたし、目の前でみすみす殺された時のあの思い、怒りは忘れようもない」  と、訂正した。  大牙の隣で、徐夫余の長身が同意のしるしにうなずいた。 「だが、結果として、羅旋を〈琅〉王にしてくれた。状況もさることながら、こんな非常事態でなければ、あいつは〈琅〉王の座を決して引き受けはしなかっただろうからな」  伯要は、大牙のことばが信じられなかった。一国の王位をさしだされて、喜んで受けない漢がいるとは思えない。野心のある漢なら、だれしも、何を犠牲にしてでもなりたいと思うのではないのか。まして、無学な戎族の漢ではないか、それが権力に目がくらまないというのか。  伯要の疑わしげな視線を見てとったのだろう、大牙は無言のまま、しかし、肯定するようにはっきりとうなずいた。  そういえば、この大牙もまた、王位を返上し他者の配下に平然と就いた。しかも、比べものにならないぐらい身分の低い漢が、同僚として肩を並べていても、いっこうに気にしないとは。こいつらの頭の中は、その中の秩序はいったい、どうなっているのだ。  その困惑が、表情に出たのだろう。徐夫余の方が、少し困ったような気の毒そうな顔をした。  だが、大牙はそれを無視し、なおも人の悪い口調を続けた。 「だから、その恩に免じて、ここでは殺さないでおいてさしあげよう」  といって、一瞬、反射的に伯要の表情が緩んだ隙に冷水を浴びせるように、 「かといって、せっかく捕らえたのだ。解放してさしあげるわけにもいかぬ。少なくとも、わが王にうかがってからでなくてはな」  そういった時の大牙の、誇らしげな口ぶりを聞いたら、おそらく羅旋本人は頭をかかえただろう。俺はそんな器ではないといっただろうが、漆離伯要には、あきらかに衝撃を与えたようだ。 『わが王』  たとえば伯要にとって魚支吾は、心からそう呼べる存在だっだだろうか。他国の人間に、胸をはって誇れる存在だっただろうか。伯要にとっては無二の主君ではあったが、それは彼にだけ都合のいい君主であったからではないのか。果たして他者に——たとえば民にとって、良い王であったのか。その人と、その理想のためなら、生命を投げうてるほどの。  応えることばもない漆離伯要に、大牙の屈託《くったく》のない声がかけられた。 「なに、窮屈な思いをしてもらうが、数日の間のことだ。我慢していただこう。さて、これで、貴殿をやっかいばらいした耿無影の奴がどう出てくるか、楽しみなことですな、漆離伯要どの」 [#改ページ]  第三章————————五城策      (一) 〈鄒《すう》〉の城門の前に、数人の従者をしたがえて、段大牙《だんたいが》がふたたび立ったのは、それから数日後のことだった。 「〈琅《ろう》〉王・赫羅旋《かくらせん》の名代として、〈衛《えい》〉王陛下に面会にまいった。是非、開門願いたい」  どこから都合してきたのか、使者の身分をあらわす玉珮《ぎょくはい》を示し、当然のことながら入城の際には武装解除をするとも告げてきた度胸に、百来《ひゃくらい》がまず、おどろいた。 「〈奎《けい》〉の三公子は昔から、大胆不敵《だいたんふてき》で知られていたが、ここまでむこうみずだとは思わなんだ」  一族の百子遂《ひゃくしすい》に向かって嘆息したのは、これほどの勇士が自軍の中にいてくれたらという意味だったのかもしれない。  いくら正式の国使だと名のっても、〈衛〉の側から見れば、〈琅〉は突然攻めこみ、国土を蹂躙《じゅうりん》している、許しがたい敵である。丸腰で城内へ入ったあと、無事でいられる保証はなにひとつない。 「それとも、躬《み》を侮《あなど》っているのか」  城壁まで出てきて、大牙を見下ろしていた無影《むえい》が低くつぶやいた。  殺されることはないと、たかをくくっているのか、無影が〈琅〉を恐れていると思っているのかという意味である。  そもそも、戦時下の交渉である。城門前に相手を呼び出しても、無礼にはならない。羊角《ようかく》将軍が〈征〉で交渉をする時にとった方法で、むしろそちらの方が普通といえる。  城内に入れれば、それなりの格式を以《もっ》て遇する必要がある。むろん、その席での話は国家間の正式な交渉事であり、いいかげんな対応はできない。 「とすると、よほどの話を持ちかけてきたのであろう。段大牙のあいかわらずのむこうみずに免じて、正式の国使としての格式で迎えいれよ。ただし、戦時下だ、物が不足している点については目をつむってもらおう」  かくして、段大牙は単身、〈鄒〉城内に入ってきた。城門まで出迎えた百来に、腰の剣はもちろん、懐《ふところ》に忍ばせていた短剣まで自分からさしだした上、軽そうな革の胴甲まではずそうとしたのには、百来の方がおどろいた。 「いや、こちらがそういうのも妙だが、今は戦の最中、貴殿はあくまで敵方の人間じゃ。胴甲ぐらいは身につけておかれるのが心得というものじゃ」  というわけで、大牙は胴甲に革の籠手《こて》、おなじくすね当てを着けた上に、広い肩から斗蓬(マント)をひるがえしながら、無影の前に現れた。 「一別《いちべつ》以来か、〈奎〉王」  無影がわざとそう呼んだのは、大牙の気分を少しでもかき乱そうとしてのことだろうが、それは不発に終わった。大牙はにやりと笑っただけで受け流し、 「〈衛〉王陛下には、ご健勝のようす。まことに祝着」  しらりとした顔つきで、ほぼ完璧な挨拶《あいさつ》をしてのけた。 「また、寛容なお心をもって、入城をご許可くだされたこと、感謝に堪えませぬ。まずは、その点をお礼申しあげる。さて——」 「段どの」  一段高くなった上座の、筵《えん》の上に座を占めていた無影が、いやな顔をしてさえぎった。 「そのような無駄口を躬に聞かせるために、わざわざ来たのか。少なくとも、昔、寿夢宮《じゅぼうきゅう》の廃墟の中で会った時には、もっと単刀直入に話す漢《おとこ》だと思ったが」 「いや、自分の用件なら、臨機応変になんとでも宰領するが、他人の使いはそういうわけにはいかない。使者が礼儀知らずだったから、交渉が決裂したなどと難癖をつけられては、戻った時に、わが王にあわせる顔がない」  いってから、 「それから、われらの謀士《ぼうし》にもな」  いって、にやりと笑った。  動揺したのは、無影の方だった。 「——まるで、子供の使いだな」  皮肉の棘《とげ》が突きたったのは、平静でいられなかった証拠だ。悟られると思いながらも、無影は自制できなかった。大牙がかすかに顔をそむけたのが、失笑を隠したように見えて、さらに無影の感情は逆なでされた。 「何か——?」 「いや、謀士どのがいっていたことを思いだした」 「————」  左頬の白い傷痕が、さっと浮き上がったのがわからないわけでもないだろうに、大牙はまっすぐに無影の目を見ていった。 「無影はだれよりも冷静なようで、実際は非常に激しい——その名のとおりの性格だから、怒らせないように注意しろと」  無影の本名は熾《し》という。火が激しく燃えさかる様を示す。字《あざな》は、影がなくなるほど明るく激しく火が燃えるという意味だ。それはそのまま、無影の性格をもあらわしていたのだと、淑夜《しゅくや》は大牙に告げた。——まだ、北方の〈容〉にいた頃のことだが、大牙はよく覚えていた。 「——何故だ」 「なにが?」 「躬を怒らせ、冷静さをなくさせた方が、そなたたちのためにはよいのではないのか」 「謀士どの曰《いわ》く、ふだんは慎重すぎるほど慎重で、簡単には動いてくれない無影が、怒った時は思い切った手段、それも、他人に予測がつかないような手に出てくる——のだそうだ。俺にいわせると、そういう謀士どのもそっくりだがな」  大牙は、終始、ゆとりのある笑顔を絶やさない。 「予測がつかなくては、困る。特に、使者の身としてはな」 「……使者のおもむきというのは」 「この事態を、なんとか解決したい」  現在、無影はここ〈鄒〉に釘づけとなっている。また羅旋たち〈琅〉の軍勢の大半は、〈鄒〉から瀘丘《ろきゅう》の間に展開している。新都には、羊角将軍とその麾下《きか》がいる。各勢力が二分され、入れ違いになっている状況は、たしかに双方ともにやりにくい。ただ、この場合、山越えという最後の手段を残している〈琅〉の方が、わずかに有利だ。 「土足で踏みこむような真似をしておいて、よく申すな」  低く押し殺した声で、無影は告げた。 「先に、〈征〉に手を出したのは、御身の方だな」  と、大牙は即座にきりかえす。 「〈征〉は〈琅〉を攻めようとしていたのだぞ。感謝されてもよいと思うが」 「べつに、〈琅〉を助けるつもりでの仕業ではなかろう。俺たちが恩に着なければならない道理はない」 「〈征〉にならともかく、〈琅〉に責められるいわれはない。藺如白《りんじょはく》どのを殺したのは、〈衛〉のさしがねではない。まして、すでに漆離伯要《しつりはくよう》の身柄がそちらの手の中にある以上、わが〈衛〉には何の責任もない」  漆離伯要が、大牙の手に捕らえられたことは、すでに無影も知っている。 「らしいですな。漆離伯要も、そう申していた。だが、〈征〉に理由もなく攻めこんだ件については、弁明できまい」 「それは〈征〉と〈衛〉との問題だ。〈琅〉には関わりあるまい」  無影はいなしたが、大牙は動じない。彼だとて、一国の嗣子《しし》として育てられたのだ。こういったかけ引きは、お手のものだ。 「そうはいかない。〈琅〉は〈征〉と和議を結んだ盟友国だ。〈征〉の危機に際して、合力するのは当然の話だ」  なにが盟友だと、無影は腹の底で思った。相手の不利につけこんで、どさくさまぎれに一時的に手を結んだだけではないか。 「〈征〉は、〈琅〉に攻めこんでいた国ではないか。それを盟友と呼ぶか」 「かつて——」  と、大牙はそこではじめて、唇《くち》もとを皮肉そうにゆがめた。 「盟約があったはずだな。〈奎〉が〈琅〉と戦を始めたら、〈衛〉は〈征〉に攻めいって牽制《けんせい》をすると」 「たしかに、兵を動かしたはずだ」 「形だけはな」  と、大牙の反応は早かった。 「正直な話、〈琅〉が手を組むとして、〈征〉と〈衛〉、どちらでもよかった。〈衛〉と手を結び、〈征〉をつぶすことも可能だった。ただ、先王も羅旋——わが王も、〈衛〉の力を借りようとは、仮にもいい出すことはなかった。俺たちの失敗を、よく見ていたのだろう。不誠実な味方よりは、誠実な敵の方が信用できる——そう判断したのだ」  そして、にやりと笑うと、 「俺も淑夜も、そう思う」 「では、どうあっても、おとなしく退く気はないのだな」 「だから、こうやって使者に来ている。日取りはそちらで決めてくれていい。地点は、麦城《ばくじょう》近くの野が適当かと思うが」 「——それは、戦の日取りというつもりか」  無影は、奇妙な顔をした。 「他に、何がある」 「莫迦《ばか》なことを」 「何が、莫迦だ。一気に決着をつけようというんだ。そちらとしても、望むところだろうが」  大牙の涼しい顔に、無影の頬の傷がまた白くなる。  現在、〈琅〉の勢力は小勢にわかれて〈衛〉国内を遊弋《ゆうよく》し、食料などを略奪しているという。〈衛〉としては討伐《とうばつ》軍を出して、無防備なままになっている城市と民人を守らなければならないのだが、〈琅〉軍の、特に騎馬軍は足が早く追い着けない。また、半端な人数を〈鄒〉から小出しにすれば、狙ったように〈琅〉軍につぶされ、全滅はしないまでも甚大な被害を出すのは、先日の漆離伯要の失敗で明白だ。 〈衛〉が——無影がこの事態をひっくりかえすためには、可能なかぎりの全軍を以て、〈琅〉の全軍をたたくしかないのだが、〈琅〉軍を結集させる方法がなく、手をこまねいていたのだ。  それが、〈琅〉から決戦を申し入れてきた。有利な方が解決法を求めてくるのは、それがさらに自分たちの有利になると判断したからだ。だが、無影の目からは、どう見てもこれは〈衛〉が一方的に有利だ。では、何が狙いだ。〈琅〉は——淑夜はなにを考えて、譲歩をいい出した。とんでもない罠が、この交渉には秘められているのではないか。淑夜に見えて、無影に見えない罠があるとは——淑夜の方が一枚上手だと知らされるのは、無影にはけっして愉快なことではない。  有利に見えるからといって、うかつにのめる条件ではなかった。 「莫迦なことを」  無影は低く吐き出した。 「なにが莫迦だ」 「瀘丘周辺の城は、皆、そなたたちの手に押さえられたと聞いた。敵の勢力内へ、兵を進めるほど無謀だと思っているのか」 「実は、その件で相談があるのだが」  ずい、と大牙が膝を進めてきた。おどろいたのは、百来である。その場に、影のようにじっと控《ひか》えていたのだが、 「それ以上、前へ出られるな」 「心配無用だ、百来将軍。だいたい、俺の武器は、全部、貴殿にとりあげられたぞ」  大牙は、むしろおどろいたように百来を見た。無影をここで傷つける意図は、まったくない。暗殺で、近しい人間を多く失ってきた彼には、うしろ暗い手段で物事を解決しようという発想はない。たとえ考えついたとしても、否定するだろう。不正な手段で手にいれたものは、他人が不正な方法でとりあげようとすることを否定できない。たとえ困難でも、真正面からぶつかっていくことを大牙は選んできたし、それは淑夜も羅旋も同じだと思っている。  たとえここで、彼が無影を暗殺したとしても、羅旋も淑夜も、誰もよろこんではくれないだろう。 「百来、邪魔をするな」  無影が顔をしかめながら命じた。 「それで、相談とは?」 「五城を——いや、これまでにこちらが押さえた城のうち、八城を返還しよう。瀘丘の包囲も解く。ただ、麦城だけは焼き払ってしまっているから、簡単に返還というわけにはいかないので、とりあえずこちらのものということで」 「——何を考えている」  あきれたような、さぐるような視線を無影はみせた。無影が大牙の立場なら、とてもではないが考えつけない話だった。犠牲を払って得た優位を、そんなに簡単に投げ出してよいものか。 「犠牲というほどのものは、はらっていない。少なくとも、こちらに人死には出ていないし、食料や武器などは、しっかりいただいている。我々の丸損にはなっていないのさ」  と、大牙はくったくのない顔で笑うと、 「それに、無条件で返すとはいっていない」 「代償は、なんだ。金銭か」 「金銭では買えないものだ。耿淑夜の身の保証を」 「——なにを」  何をいい出すのだと、無影のとまどった視線が百来の見開かれた目とぶつかった。 「昔、俺が〈容〉の執政《しっせい》だった時代、約束したはずだ。五城を手にいれ、それを〈衛〉に渡して淑夜の身柄を買い受けると。俺が不甲斐《ふがい》なかったばかりに、反故《ほご》になってしまったが、その話をしたら今度は羅旋——いや、わが王がその約束を引き継ぎたいといいだした。五城などというけちなことはいわぬ、今|手中《しゅちゅう》にある城をすべて投げ出してよい、大事な謀士が二度と、報奨目当てのよからぬ輩《やから》の標的にならぬようにしたいと——」 「もともと、我らの——〈衛〉のものではないか!」  激したのは、百来の方だった。剣環をたたいて、 「それを奪っておいて、取り引きしようとは盗人《ぬすっと》たけだけしいとは、このことじゃ。そんなふざけた話は、聞くのも——」 「百来」  無影が、冷たい声で制止した。 「段大牙どのは正式な軍使だ、これでもな。無礼な真似はするな」 「しかし、陛下——」 「奪ったものを取り引きに使ったのは、〈衛〉の方が先だと思うが、百来将軍」  と、大牙は、余裕の微笑まじりだ。 「瑤河《ようが》沿いの城市を、わが国と〈征〉が戦をしている隙に切り取り、恩着せがましく〈征〉に返還したのは、ついこの間のことだろう。なにも、われわれだけが責められるいわれはないが、百来将軍」  いわれてみれば、たしかにその通りで、百来は白髯《はくぜん》を震わせて黙るしかなかった。 「というわけだ、無影どの。こころよく応じていただけると、ありがたい」  向きなおって、大牙は無影の顔色を観察した。誇り高い無影のことだ、今までの大牙の言動だけで、相当傷ついているはずだ。〈琅〉に——他者に優位に立たれ、譲られるのは、これが彼にとってはじめての体験だろう。少なくとも、〈衛〉の国主になって以来の無影は、常に優勢にたち、人に物を命じ、あやつる立場にあった。状況は彼が作り出してきた。  大牙も淑夜も、羅旋でさえ周囲の状況に合わせて対応策をとるしかなく、それも生命さえ賭けて、懸命に切り抜けてきている時に、無影ははるかな高みから、天意の操り手のような顔をして笑っていたのだ。  それを憎いと思ったことは、大牙は一度もないが、この瞬間、一度ぐらい、立場を逆転させてみるのもよいと考えていたことはたしかだ。 「ほんとうに——」  しばらく、じっと空を見つめていた無影が静かに口を開いた。 「淑夜ひとりが、それほど大事か」 「すくなくとも、五城の値打ちはある漢だ。いや、そういう漢になったと、俺は思う」  まっすぐに告げてくる大牙に、無影は絶句するしかない。彼が知っているのは、寿夢宮の廃墟の中で会った時点までの淑夜だ。無影の皮肉を受け止めて動じない静謐《せいひつ》さは身につけていたものの、まだ青くさい孩子《こども》の側面をはっきりと見せていた。  無理もない。あの頃の淑夜は、自分の夢にさえはるかに及ばず、できることも限られて暗中模索の時代だったのだ。大牙を擁《よう》しての北方諸国の統一をもくろんではいたものの、表向きの彼の立場は、大牙の陪臣のひとりにすぎなかった。  皮肉なことに、夢を賭けた北方の統一が〈琅〉の羅旋の手で撃破されてようやく、淑夜は本当の夢に近づいた。大牙ではなく、羅旋を擁することで彼は、掣肘《せいちゅう》をうけることなく最大限の力を発揮する場を得、中原へうって出てくることができたのだ。  いいかえれば、大牙では淑夜の才能は生かし切れなかったということだが、大牙自身にその悔いはあっても、ねたみはない。 「あれは、一国を左右できるだけの漢だ。すくなくとも、俺を説得して〈琅〉に帰順《きじゅん》させた。羅旋も奴が説かなければ、まだ巨鹿関《ころくかん》で王になるべきかどうか迷っていただろう。淑夜は、この先の〈坤《こん》〉の命運を変えかねないことを二度やったのだ。五城どころか、国の半分をさし出しても惜しくはないところだが——まあ、それほど〈琅〉の内情も裕福ではないので、八城で手をうってもらいたい」  ぬけぬけという大牙を、無影も百来も、憮然《ぶぜん》とした顔で見ていた。 「——よかろう」  しばしの沈黙のあと、ようやく無影は決断した。とにかく、〈琅〉からの申し出は〈衛〉にとっては不利なものではない。いずれ、決着はつけなければならないのだ。〈衛〉の兵力は、先の新都の戦の戦死者と〈鄒〉までの間にでた脱落者とで、減ってはいるが、〈琅〉全体の兵力よりはるかに多いのだ。まして、先王が没したばかり、赫羅旋の擁立は、ほかの国相らが完全に承服してのことではない。叩くのならこの時期だ。 「日取りは、のちほど決める。こちらから、あらためて使者を出そう」 「そうか」  と、大牙はあっさりと腰を上げた。逆に百来の方があわてて、 「念をおさなくともよいのか」 「まさか、〈衛〉王ともあろう漢が、約束を違えるようなことはないだろう。俺はすぐに戻って、移動の準備をしなければならん。先を急ぐので、これで」  そのまま、案内も待たずにとっとと勝手に城外へ出てしまった。城外に待たせていた従者たちが、大牙に駆けよるのが城壁の上からも見えた。大牙は悠然と自分の馬を受け取り、西の方角——本来なら無影たちが帰るべき方角へと帰っていった。 〈衛〉側にしてみれば、このまま大牙を城内に力ずくで留めおくという手もあった。いくら段大牙が武勇の持ち主でも、多勢でかかればひとたまりもなかっただろうし、大牙を人質にとれば、戦を回避できないまでも、有利に展開することは可能だろう。  だが、無影はそれを命じなかった。百来も、無言のまま大牙の背を見送った。  卑怯《ひきょう》な真似はできない——そういう気持ちも、すこしは混じっていたかもしれない。だが、すくなくとも無影の胸中の大部分を占めていたのは、大牙に対する敗北感だった。  会見の間、無影は終始、大牙に威圧されていた。——というより、岩壁に爪を立てているようで、どれほど睨みつけてもまったく大牙は動じなかった。以前、直に対面した時よりも、はるかにふてぶてしくなっている。 〈奎〉を二度まで滅ぼされ〈琅〉に捕らえられ、流罪にまでなった王だ。しかも、現在は滅ぼした相手に膝を屈し仕えている身だ。卑屈にならないまでも、すこしは恥じる気配があってしかるべきだと思っていた。  大牙にそれをいえば、 「何を恥じることがある。王になったからといって、一生、王でいる義務はない。自分の力量を存分に発揮できる場があるなら、それで十分だ。地位や身分は問題にもならん」  きっぱりといい切ってみせるだろう。  国主の嗣子として育ちながら、大牙は人に頭を下げることを知っていた。臣下といえど、すぐれた者には頭をさげよと、兄・士羽《しう》に口うるさいほどに教えこまれたのだ。でなければ、人材は集まらぬと。それは士羽の理想であり、大牙は兄の志を受け継いだ形で生きることを選択してきた。  一方、無影には、物心ついた時から頭を下げることを強要されてきたという意識がある。自分よりも劣った人間が、ただ本家の人間だ、身分が上だというだけで、自分の礼を受け、自分より優遇されるのを見てきた。だから、実力本意の国を作ろうと思った。  思ったはずだった。  だが、両者の理想と目的は、同じ地点をめざしていたにもかかわらず、結果は天と地ほどにもかけはなれてしまった。  しかも大牙も淑夜も、そして一度見たきりの羅旋も、気がついてみれば、無影をおきざりにしてはるか先へと行ってしまった。距離や立場の問題ではない。彼らと、人間としての大きさが違っていることを、無影は大牙を通じて見てしまったのだ。  何が原因か、何故こうなったのか、無影にはわからなかった。ただ、大牙に対して屈辱を感じるよりは、混乱と、自分自身への疑惑の方が強くなっていたのだった。 「陛下、ご命令を」  百来が、ぴたりと彼の前に座って一礼した。 「〈鄒〉に残す者の選抜をお願いいたす。むろん、某《それがし》が守将として残ります」  決然といい放った百来の顔へ、じっと無影の視線が注がれた。 「よいのか、本当に」 「もとより、いつでも死ぬ覚悟はできております」  ——無影が、全軍をあげて〈鄒〉を出られなかった理由は、ここにもあった。 〈鄒〉の守りが手薄になれば、すぐに背後から羊角と禽不理の、〈琅〉と〈征〉の連合軍が雪崩れこんでくるのは目に見えている。〈鄒〉は難攻の城市とはいえ、補給もなしにはひと月も保たないだろう。新都から急に引き上げてきた上、数万の軍が駐留している現在、〈鄒〉城内の食料の備蓄は非常に少なくなっているのだ。  食料だけではない、兵力もまた、戦をする以上、消耗品だ。  ある程度、保ちこたえようとすれば、それだけの兵力を〈鄒〉に残す必要があるが、そうすると、〈衛〉国内の〈琅〉軍を確実に潰《つぶ》す保証ができなくなる。 「どうか、可能な限りの兵力をお連れくださるよう」  と、百来は白い頭を下げた。 「ひと月以内に、〈琅〉軍を滅ぼしてお戻りくださればよろしいのじゃ。何もためらわれるようなことではない」  たしかに、その通りだ。だが、ひと月というのは単純な計算で、たとえばその間に百来に万が一のことがあれば、そのまま一気に陥落してしまうだろう。いや、〈鄒〉自体は惜しくない。奪われれば、とりかえせばいいのだ。だが——。 「そなたは、今、〈衛〉ではもっとも戦巧者《いくさごうしゃ》な将だ。そなたに〈琅〉との戦の指揮を執ってもらいたい。そうでなければ、躬《み》の副将として——」  使い捨てにするには、惜しすぎる人材だった。戦しか才能はないと本人はいい、実際、任された〈鄒〉の行政は、あまり目立った功績はあげていない。旧来のやり方を厳格に遵守するだけで、民政のために自分からなにか工夫するということはなかった。  だが、事、戦となれば、百来以上に経験を積み、勝ってきた将軍は〈衛〉にはいない。  そして、それ以上に彼を惜しいと思っている自分に、無影は気づいていた。  思えば、無影が〈衛〉を簒奪《さんだつ》した時、先頭をきって忠誠を誓ってくれたのは百来だった。〈征〉の工作で国内に謀叛《むほん》が起きかけた時も、不満分子を押さえこみ、〈鄒〉を守りぬいてくれた。無影が国主になった意味を理解し、何もいわずしっかりと背後から支えてくれた。まるで——。  まるで、父か祖父のような庇護《ひご》を、無影に与えてくれていた。  無影の父親は、彼が幼い時に早世している。記憶に残っているのは、無気力そうにうなだれている父親の姿だけだ。むろん、遊んでもらった覚えも、望まれ期待された記憶もない。もっとも、その点は淑夜も同じだったが。  ただ、無影は早い時期から一家の主となり、母とわずかな使用人と、それよりわずかな財産を親戚の手から守り通さねばならなかった。その分、他人に向ける眼も厳しく冷たいものとなった。大家族の中でひっそり忘れられたように、だが、生活の心配はせずにすんだ淑夜との相違点は、そのあたりからも生まれたのだろう。  とにかく、幼い時から父親の庇護というものから無縁だった無影にとって、百来の無言の肯定は、何物にも代えがたいものだったはずだ。今まで、感謝どころか意識したこともないものを、無影は突然、思い知らされたような気がした。  ——いつも、そうだ。  目の前から奪い去られそうになって、はじめてその存在の大切さに気づくのだ、彼は。  連姫《れんき》の時も淑夜の時も、そして百来も。  連姫は力ずくで取りもどしたが、心までつかまえることはできなかった。淑夜は、自分から離反していった。そして——。 「某の身のことをお案じくだされているなら、それは無用に願います。どうせ、この老齢じゃ、あと五十年も生きられるわけではない。ならば、この身を最大限に生かせる場を、選びたいと思います」  と、いわれてしまえば、もう無影には何もいえない。  彼を惜しむのならば、ひきずってでも連れていくべきなのだろう。だが、 「そうか——」  無影は、そういってうなずいてみせるしかなかった。暁華《ぎょうか》がこの場にいれば、何故、言葉を尽くして説得しないのだと、まなじりを吊り上げただろう。 『そうやって、言葉を出し惜しみなさるから、肝心のものをすべて失ってしまわれるのです。言葉にしていっていただかなければ、他人は何もわかりません。陛下が何を考え何を慈しみ、何を憎んでおられるのか、みんな、おのれの解釈でしか測ることができません。それが誤解を生むのだと、何故わかりませんか。言葉をご存知ないわけではない、だれよりもその意味をご存知のはずの方が——』  だが、暁華はこの場にはいない。瀘丘に無事に帰れたとしても、暁華には責められるだろうと覚悟しながらも、 「では、後のことはすべて任せよう」  いいきってしまった。 「かしこまりました。ただ、ひとつだけ、わがままを申しあげたいのですが」 「何だ、かなえよう」 「子遂めは、陛下がお連れくださいますよう」 「わかった」  いや、おそらくは、百来の真意を無影は気がついていないだろう——百来は思った。ただ、自分の身内を生き延びさせたい、それだけを望んだのだと解釈されただろう。それでもいいと、百来は思った。 「では、出陣の支度を整えてまいります」  百来は、無影の肩のあたりの孤独な影を気にかけながらも、前を下がると、甥《おい》の子遂《しすい》を呼んだ。出発するには、繁雑な支度が必要だ。人員の点呼《てんこ》、武器類の点検、糧食や資材の梱包《こんぽう》、その他諸々の段取りを、一族の青年にひととおり指示してから、百来は居ずまいを正した。 「そなたに、申しておくことがある」 「なんでしょう」  甥といっても、姓を同じくする一族のひとつ下の世代というだけで、どれほどのへだたりがあるのか、ふたりともが忘れていた。ただ、早くに両親を亡くした子遂は、実子のない百来のもとで彼を伯父と呼び、甥と呼ばれてきたのだ。心情としては、親子と呼んでもさしつかえはなかった。 「そなたは、陛下とともに行けるように願い出ておいた」 「それは——!」  子遂も、〈鄒〉に残留することの意味は知っている。最近は百来のかわりに、無影の側近として従っている子遂だが、今度は〈鄒〉に残るつもりでいた。だが、伯父の百来はそれを許さないという。 「伯父上を残しては、とても——」 「それでも、敢えて行けと命じる。よいか、これは一族の長老としての命令じゃ。ただ、そなたの生命を惜しんでこんなことを申すのではない、それをよく承知しておいてほしいのじゃ」 「——と、いいますと?」 「よいか、そなたは陛下とともに行け。戦になるが、決して死んではならぬ。たとえ、万が一、陛下にもしものことがあっても、そなただけは生き延びよ。どんな卑怯未練《ひきょうみれん》な手を使ってもよい。敵に降伏してもよい」 「伯父上!」 「静かに。——何故、儂がこんなことを申すかわかるか」 「わかりません!」 「万が一、〈衛〉が敗れることがあったとして」 「そんな、莫迦なことがあるはずがない。兵力の点ひとつをとっても、まだこちらの方がはるかに有利です」 「仮定の話じゃ、あくまでも」  とはいえ、百来はなんとなく予感していた。戦は、勢いが八分だ。奪った城市をほとんど返還したといっても、まだ、事態の推移の主導権は〈琅〉側にある。  もうひとつの百来の不安の材料は、新都の退却からこちらの無影の変化だ。〈琅〉に出し抜かれた衝撃から、完全には立ち直れないでいる上に、たった今、大牙との会見でさらに、肩のあたりの影が薄くなってしまったような気がするのだ。  覇気のない——いいかえれば、生きる気力のない将に指揮される兵は、どれほどの大軍であっても、死にもの狂いの兵に比べれば弱い。大軍だという意識が、思わぬ油断につながったりすることもあるのを、百来は感覚として知っていた。  戦には、絶対ということはないのだ。 「だれもが滅んでしまったら、陛下は——耿無影という人間は、ただの弑逆者《しいぎゃくしゃ》として片付けられてしまうかもしれぬ。だれかが生き残って、事実を——よいか、弁護でなくてよい。ただ、事実を語らなければならぬのだ。陛下のため〈衛〉のため、そして我らの次に来る世代のためにな。申している意味がわかるか」 「——なんと、なくですが」 「それでよい」  百来はうなずいた。 「それでよい。今、理解する必要はないから、ただ、今申したことを一字一句、忘れないようにせよ。いつか——いつかきっと、わかる時がくる」      (二) 「行ってきた」  麦城付近にすでに移動していた本隊と合流した大牙は、羅旋の天幕へ顔を見せると、たったひとことで報告を終えた。夜半、案内も前触れもなく現れた大牙に、 「無影のようすは、どうでした」  その場にいた——というより、羅旋の天幕に詰めきりの淑夜が、かるく顔をあげて訊いた。その顔色が、思ったよりもよいのに内心ほっとしながら、 「元気だった——ようだ。一応な」  大牙の回答に、 「一応?」  と、羅旋も顔をあげて反応した。  ふたりの間には、いつの間に作ったのか、粗い麻布に描いた、大きな地図がひろげられていた。むろん、この麦城付近の地図である。さほど詳細なものではないが、主だった道筋や丘などは、わかりやすく描いてある。 「うむ。さんざん皮肉はいわれたが、どこか上のそらのようだった。新都の件が、そうとうこたえてるんじゃないかと思う。なんというのか——向かい合って話しているのに、背中を向けられているような印象だった。もともと、人の話をそっぽを向いて聞いているような漢だったが」 「おまえの印象も、そうか」 「——無影と会ったことがあったんですか、羅旋?」  淑夜が不思議そうな顔を、半分だけ上げた。一度も、聞いたことがなかったのだ。 「昔、陛下——先王の護侍のふりをして瀘丘まで来たことがある。先王もまだ部屋住みの身で、揺珠《ようしゅ》どのの兄上が〈琅〉公だったころの話だ」  と、答えてから、 「そういうと、大昔のような気がする。せいぜい、五年かそこら前の話のはずだが——」  めずらしく、羅旋は嘆息した。それに大牙が同調して、 「考えてみれば、とんでもない距離を俺は移動してきたんだな。〈奎〉に始まって、北方の〈容〉に移り、今度は〈琅〉より西へ流罪、もどってきたら、今度は南の〈衛〉だ。あとは〈征〉だけだな、俺が足を踏み入れていないのは」  大牙の声に、淑夜が目を見張った。驚いたのではない。大牙とほぼ行をともにしていた彼自身もまた、同じような距離を移動しているのだ。〈衛〉に生まれた分、移動距離は長いといえる。それを、いわれてようやく気づいたのだ。  傭車《ようしゃ》時代、〈坤《こん》〉の大地のほとんどを歩きまわっている羅旋が、軽く笑った。 「そのうち、どこでも自在に行けるようになるさ」 「それは予言か、羅旋」 「莫迦をぬかせ。俺たちが働かなけりゃ、だれがやってくれる」 「ちっ、やはりそうか」  天幕の中、三人だけの会話だという気安さもあるが、とてもではないが、王と臣下の会話ではない。しかも、羅旋と大牙はふだんから大声の方だ。  さすがに淑夜が気がついて、 「すこし、声に気をつけてください。言葉づかいまで、急にあらためろとまではいいませんから」 「わかった。それで——」  先に、大牙が首をすくめて、 「いわれたとおり、八城の返還は申し出て、むこうも条件は呑んだ。日取りは追って、使者が来るだろう。だが、ほんとうにこれでいいのか?」 「何をぬかす。納得して使者にたったんじゃないのか、大牙。自分でも理解していない策に、よくのったな」  羅旋が呆れ、淑夜が声を出さずに笑った。 「だからこそですよ。無影は人の腹の内は読みますが、ない腹は読めませんから」 「それはそうだ」  と、羅旋が笑いだす。 「この野郎——」  さすがに手までは出さないが、険悪な目つきとなった大牙に、羅旋は軽く手をふってみせた。 「ちがう。昔、俺も同じことを考えたなと思い出しただけだ」 「なんの話だ?」 「いや、昔話はいいかげんにしておこう。生き延びられれば、いくらでもできることだ。とにかく、こちらの意図が無影に悟られなかっただけでも、上出来だ」 「俺にわかるように説明しろ」 「わざとではなかったんですよ。大牙のいるところまでは、使者を出すしかなかったし、使者にあまり詳細なことを教えるのも危険でしたから。——八城を返すといっても、武器と食料はすべて、わが軍が集めてしまいました。いまさら無影が支配者として乗りこんだところで、人心はついていかないでしょう」 「悪どい手だな」 「ぎりぎりの食料は、残してきました。無影が収奪しなければ、ひと月ぐらいは食いつなげるでしょう」  と、淑夜は顔色も変えない。 「これ以上、民に負担をかけたら、その時は無影が人の上に立つ資格を失くした証拠です。そうしないとしたら、無影は八城を得ながら、軍事的に拠るところは瀘丘か、それとも〈鄒〉に引き返すしかないんです」  たとえば、麦城から一番近い城市は湘水《しょうすい》というが、これが通常の戦なら、無影はまずここに入って本営とし、そこから攻め出てくるだろう。厚い城壁で囲まれた城市で休むか、障壁の何もない野天で寝起きを続けるかは、兵たちの心理や士気に大きく関わってくるからだ。野営が続くと疲労が倍加するとは、だれでも予測できる。ことに、夜襲をかけられる不安でもあれば、その緊張は相当なものになり、さらに疲れやすくなるだろう。  ちなみに、〈琅〉軍もまた、条件としては同じで、まったく緊張がないわけではない。ただ、もともと野営に慣れた者の多い彼らが、中原の城壁内での暮らししか知らない〈衛〉兵より、疲労度が低いのも確かだ。さらに、羅旋や左車の一族、そして戎族の中で一年暮らした大牙らが、疲れも不安も感じないのは当然だった。 「〈鄒〉が長く持ちこたえられるとは思えない。瀘丘に入ったところで、裸同然だ。籠城というのは、どこかから援軍が来るあてがあるから採る策だ。この場合は意味がない」  羅旋が、低い声で淑夜の補足をする。 「……つまり、無影は五万の兵力を挙げて、俺たちと野戦をしなければ、未来はないというわけか」 「いえ、四万以下、うまくすれば三万には減らせるはずです」  しらりとした顔で、淑夜は答える。 「まず〈鄒〉に、守備兵を残しておかなければなりません。百来将軍を見殺しにするなら別ですが、羊角将軍の兵力一万に対抗するためには、やはり一万以上の兵が必要です。さらに、新都の戦で相当な被害を出していますし、撤退の間に脱落した数もかなりなもののはずです。先日、漆離伯要を捕らえた戦でも、千人の兵のほとんどは逃げ散ったと聞いています。その上で、返還された城にもそれなりの兵力を割かなくてはならないはずです」  戦略的に拠点にできなくても、自分の支配下に戻った以上、守備のため、最低限の兵は配置しなくてはならない——それが、常道だと淑夜はいった。 〈琅〉軍に再占領されないためにも、また、戦で人手と食料を奪われて追いつめられた民人らを、離反させないためにも、たしかに必要な措置だ。 「食料が少ない上に、戦の趨勢《すうせい》も思うように運ばない。〈衛〉の庶民の不満は、かなりのものになっています。当然、守備のために割かなければならない兵力は多くなる。一方、我々は守備する城がない分、全兵力を戦に注ぎこめるというわけです」  つまり、気前よく城市を返したのは、数が多ければ多いほど相手の兵力を削れるからだったのだ。麦城を除いたのはむろん、殲滅《せんめつ》された城に兵を配置する必要はないからだ。  どこまで、淑夜たちの意図に無影が気づいたかはわからない。とりあえず、大牙の持っていった条件を呑んだことだけはたしかだが、 「あとは、無影が気がつかないことを祈るだけです」 「しかし、淑夜。——仮に三万まで減らせたとしても、俺たちはやっとその半分強だぞ」  もともと、山を越えて〈衛〉に侵入したのは羅旋麾下の五千のみだ。これに方子蘇《ほうしそ》の一万と戎族の長の左車の二千が合流して、ようやく一万七千だ。  羊角の率いる軍が一万あるが、これは〈鄒〉の攻略にあたることになるから、麦城の戦には間に合わないだろう。 「その上、〈衛〉にはまだ余力がある。西の国境付近には方子蘇が出し抜いてきた分、まだ、一万ほどがうろついているぞ。その連中がもどってきて、本隊に合流したらどうする」 「その点は、すでに藺季子《りんきし》どのに連絡して手をうってもらっています。安邑《あんゆう》に残してきた一万のうちから、二、三千を、国境付近に出没させてくれるよう頼んでおきました」  鳩の使いは、安邑へならどこから飛ばしても、ほぼ確実に届くのだ。〈衛〉国内に侵入する必要はない、ただ、いつでも踏みこめるぞと脅しをかけるだけでいいと、藺季子にはいってある。 「挑発《ちょうはつ》ととられて、〈琅〉に攻めこまれたらどうする」 「兵力が互角なら、土地勘のあるわが方が有利です。それに、そんなことが起きる可能性は低いでしょうよ。無影の命令もないのに、勝手に攻めこむだけの度胸のある将がいれば、無影がもっと重用しているはずです」  百来以外、〈衛〉にめぼしい将軍がいないことを、淑夜は指摘した。 「無影は、自分の命令に従う者ばかりを身辺に集めてしまいました。緊急の場合、自分の判断で臨機応変に動ける者は、ほとんどいない。これは、諫言しようとしなかった〈衛〉の人のせいもあります。無影に対して逆らえば、厳しい報復がくる——それで萎縮《いしゅく》してしまった。それに、無影は欠点はあるものの、理想に近い君主でしたから、敢えて危険を冒すよりは、黙って何もかも任せてしまう方が楽だったんです」 「——八年前、おまえをあれほど追及しなかったら、もっと、そういう人間が出てきていただろうにな」  羅旋が、めずらしくひっそりとつぶやいた。無影のとった苛烈《かれつ》すぎる手段と態度が、人々を萎縮させ、意欲を削いでしまったのだ。  淑夜はひとつ、寂しそうにうなずいて、 「その点では、私にも責任がありますが。とにかく、これ以上、無影に無駄な戦をさせてはいけない。今度の戦で、息の根は止められなくても、大勢は決めてしまわなければならないんです」 「といって——」  と、大牙はようやく、膝下《しっか》の地図に目を落とした。  すこし、眉を寄せて、 「この布陣は、すこしばかりまずくないか。北を向いて、正面に〈衛〉軍、背面には湖だ。俺たちは馬の脚は早いが、水は渡れん。これでは、逃げる場所がないぞ」 「逃げるわけにはいかないんです。少なくとも、正面の〈衛〉軍を突破しなければ、〈琅〉に帰るにしても義京に逃げこむにしても、活路はない。それは、全軍に覚悟してもらいたいんです」  たいへんなことを、さりげない口調で語る淑夜には、大牙も羅旋も慣れてしまっている。 「——たしかにな。小細工には限界がある。実力行使は、正攻法でいくしかないか。それで、具体的にはどうする」  大牙がつぶやくと、 「昨年、魚支吾《ぎょしご》相手にやりそびれた手がある。耿無影にも、有効だろうよ」  羅旋のいう戦法というのは、簡単だった。騎馬隊を中心に、錐《きり》のような陣形で正面突破をはかり、本営を衝く。〈衛〉も〈征〉も、王が主将となり、すべての権限がひとりの人間に集中しているという点では、まったく同じだ。王ひとりを倒せば——少なくとも、人ひとりを敗走させれば、戦の決着はつくのだ。王が戦場へ出て来さえすれば、兵力差の二倍程度は問題ではない。 「馬の足に比べたら、戦車の速さも動きも話にならない。騎馬兵だけで突出して、本営を衝く。問題は——」 「当日の天候です。湖が近いだけに、早朝は霧が出る可能性が高い。それに、この時期、風は西から北へ回ります」  秋から、季節はそろそろ冬にかかろうとしていた。 「逆風だな。そいつはまずいな」  大牙の発言は、いつも正直すぎる。  風に乗るか逆らうかで、矢の勢いも違ってくる。風下にむかって矢を射る方が有利なのは、いうまでもない。 「といって、風向きが変わるのを待つわけにもいきませんし」 「おい、五叟《ごそう》先生はどうした。あの先生もたしか、風のひとつふたつ、あやつれるはずだろう。いってみたのか、羅旋」 「——あまり、そういうことはしたくないそうだ」  羅旋が、苦笑しながら答えた。 「なんだ、そりゃ。出し惜しみか?」 「天にも地にも、その時々の理《ことわり》や自然な流れがある。それを、人為的にねじ曲げ歪《ゆが》めれば、かならず報復を受ける——のだそうだ。南風を無理に吹かせれば、思わぬ時に北風に変わる可能性がある、というところかな」  後半は羅旋が勝手に解釈したものだが、大牙も淑夜も、少し神妙な顔をしてうなずいた。ことは風や天候のことだけに限らない。時代ということばに置きかえても、五叟の台詞は十分に通じると気づいたのだ。  はたして、自分たちは時代の風を無理に変えようとしているのか、それとも向きが変わった風に乗ろうとしているのか。 「ただ、役にたつなら、霧を長続きさせることぐらいはやってみてもよいといっている。どうせ五里霧《ごりむ》だが、自然のものを利用して少し増幅するだけだから、なんとかなるそうだ」 「わかりました。その線で、もう少し、戦法を考えてみましょう」  いいながら、淑夜が地図をたたんだ。 「戦場に少し、小細工ができればいいんだがな。敵の戦車の足を、できるだけ遅くする方法があれば」  と、羅旋が考え深そうな目でいう。 「それも、考えてみます」 「では、策は謀士どのに任せよう。俺は、好きなようにこきつかってもらっていいからな。これで話はすんだ。おい、羅旋、酒ぐらい出したらどうだ。俺は大事な使者の役目を終えて、帰ってきたばかりだぞ」  大牙がはじけるような背伸びをしながら、遠慮なく大声をあげた。羅旋は露骨にいやな顔をする。 「王に向かって、供応の要求をする奴があるか」 「王の自覚もない奴が、なにをいう。王だといばるなら、俺がこの天幕に入った時の態度から叱《しか》るべきだ」 「それで神妙にかしこまる奴なら、最初からそうしている」  ふたりの応酬《おうしゅう》は、淑夜が天幕の隅から酒のはいった壺《つぼ》をひっぱり出してきて、ようやくおさまった。 「無茶な飲み方はしないでください。ここはもう戦場なんですし、だいたいこれは、近隣の城市から取り上げてきたものですよ」 「不味《まず》くなるようなことをいうな」 「そうだそうだ。文句があるなら、おまえは呑むな」  たちまちのうちに手を結んだふたりに、 「なんで、私ひとりが除け者なんですか」  羅旋たちのあからさまないい方には慣れている淑夜だが、これにはむっとした。大牙が待ってましたとばかりに、 「俺たちの顔を見ているより、玉公主の顔の方がいいんだろうが。とっととご機嫌をうかがってこい」 「ちゃんと、そばに茱萸《しゅゆ》がついていますよ」  淑夜は嘆息まじりに即答した。  揺珠の件でからかわれると、人目にそれとわかるほどうろたえていたのが、山越え以来、態度が落ち着いてきている。それがおもしろくなかったのだろう。 「ここはもう戦場だといったのは、おまえだぞ。だれがそばにいようと、婦人が戦場にいて心細くないわけがない。少し話をするだけで、気持ちが違うはずだ。とにかく行ってこい」  噛みつくようにいう大牙に、 「——玻理《はり》どのもそうでしたか?」  淑夜は、軽い反撃のつもりだったのだろう。だが、大牙は真剣な顔で、即座にうなずいてみせた。 「人殺しが好きな女がいるものか。ただ、惚《ほ》れた漢《おとこ》のために、懸命についてくるんだ。それを思いやって、配慮をしてやれないなら、女に惚れられる資格はないな」 「名言だ」  羅旋が、素直に感嘆の声をあげた。 「ひやかすな」 「いや、俺も戎族の人間だからな。玻理がどんな気持ちでおまえについてきたか、おまえがどんなつもりで、今回、西に残したかぐらいはわかる。女に、戎族も中原の者もないこともな。なら、漢にもそれなりの義務があるだろう——どうした、妙な顔をして?」  神妙にふたりの話を聞いていた淑夜が、ふいに思いあたったように、つらそうな表情を見せたのだ。 「揺珠どのが重荷だとかぬかすのなら、この場でぶちのめすぞ……」 「ちがいます、揺珠どののところへはこれから行きます。ただ、別の話を思い出したんで——」  あわてて淑夜は首をふった。 「別の話?」 「連姫どののことを——」 「おい、いっている口の端から、別の女の話か」 「いえ、浮わついた話ではありません。ただ、今まであの人は、つらい思いをしていたんだろうかと——。不思議ですね。今まで、あの人の顔すら思い出したこともなかった。まったく関係のない人だと思っていたのに。でも、無影と戦をするということは、あの人をも敵に回すということです。好きで従軍しているわけでもない人に、危害が及ばないようにしなければと思ったのと——それから、無影に万一のことがあったら、あの人はどうするんだろうと、ふと——」  羅旋と大牙は、思わず顔を見あわせた。 「連姫どのを、救う手段を考えた方がいいかもしれませんね」 「——俺は、女の気持ちがわからないと、昔、暁華の奴にさんざんいわれた漢だから、なんともいえないが」  羅旋が、ゆっくりと口を開いた。 「いやな男に黙ってついていくほど、女は莫迦でも従順でもないと思うぞ」 「それは——私もそう思います。だから」 「だからといって、俺たちに何ができる」  と、大牙が口をはさんだ。 「男と女のことだ。ふたりにしかわからないことだ。解決できるのもふたりだけだ。あとは、耿無影の莫迦がどれほど、素直になれるかだけだ。——おい、念のためにいっておくが、こんな話を玉公主には聞かせるんじゃないぞ。女にはつらい話だし、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫の名が出れば玉公主だとて平静ではいられるまい」 「わかっていますよ。では、私はご希望どおり退散しますから」  先輩ぶった大牙の物言いがおかしかったのだろう、淑夜は笑うと、それ以上からかわれないうちにと、さっと天幕の外へ出ていってしまった。 「一人前の口をきくようになったな」  大牙が先に、酒の杯に口をつける。 「一人前だ。少なくとも、一国の命運をかけて、巨鹿関からここまでの展開をほとんどひとりでひっぱってきた。——戦の前に、こんなことをいうのはなんだが、もしも今度、勝てたら、あいつを国相か、それに準じる立場に就けたいと思っている」 「ほう」  羅旋のことばに相づちはうったが、大牙はあまりおどろいた風は見せなかった。賛成だという意味らしい。 「あいつなら、新しい国の形を考えられるだろう。羊角将軍も藺季子どのも、あいつのいうことなら反対はするまい。たとえ、俺が王位を退くことになっても、これは呑んでもらおうと思っている」 「この一戦に勝てば、おまえ以外に王はいない。その心配はあるまいさ。まして、玉公主どのの婿君《むこぎみ》だ。れっきとした〈琅〉王家の人間だぞ。ああ、そういえば——」 「なんだ」 「いや、耿無影に、その件を話すのを忘れてきた」 「それでいいさ。聞かせても、腹がたつだけだろう」  にやりと、羅旋は顔の片側で笑った。両眼の奥が、翠《みどり》色に底光りする。  羅旋には、彼が〈琅〉王になったと聞いた時の無影の反応が、見ていなくても手にとるように想像がついていたのだ。はた目には、何もしないのに王座がころがりこんだと見えるだろう。実際、羅旋は、無影のような非常手段はとっていない。〈琅〉が、非常な状況の中に置かれただけだ。その非常事態を切り抜けられる人間として、羅旋は選ばれた——いいかえれば、おしつけられただけなのだ。  それでも、徒手空拳から出発した、しかも異民族の男が中原の国の王になど——と、怒り狂う者がいることも、羅旋は知っている。  この戦に、万が一にも勝利できた場合、〈琅〉は〈衛〉の土地も合わせて、中原最大の国になる。その頂点に、羅旋は立つことになるが、それは多くの人々の反感と嫉視《しっし》をも、その身に受けることになるのだ。 [#挿絵(img/08_145.png)入る]  わりに合わない商売だと、羅旋は思っている。そして、そう彼が思うことを知れば、また怒る者がいることも。  羅旋自身は物にこだわらない性分だが、自分に手が届かないもの、得られなかったものに対して人がどれだけ執着するか、事実として知っている。たとえば、〈魁《かい》〉の太宰子懐《たいさいしかい》がその典型だった。  手に入れる資格がない者ほど、激しく嫉妬する。その点、耿無影は嫉妬という感情からは遠いだろう。だが、なにもしなかった羅旋と、血のにじむような思いをした自分の得たものがほぼ等価だと知って、おもしろいわけはないだろう。  羅旋と無影の違いはさまざまあるが、最大の相違は、ふところの深さという点だ。五城の報奨に目がくらむこともなく、傷ついた淑夜を身を挺《てい》して守った羅旋と、決して許そうとしなかった無影と——。  そして、その淑夜は、無影には得られなかった愛情を手にいれようとしている。しかも相手は、〈琅〉でもっとも——おそらく、中原でも一番身分の高い婦人だ。  美貌の点からいえば、少女のころから噂の高かった|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫には一歩譲るかもしれない。だが、しおれかけた花だった揺珠は、いつの間にか、清楚《せいそ》な白い花としてみごとに甦《よみがえ》っている。  実は今回、あわただしく出発したために、揺珠の姿は、血の気の多い兵たちの前に出る機会が多くなってしまったのだが、見た者は皆、一様に感嘆と憧憬《どうけい》の色を目にうかべはするものの、それ以上、騒ぎ立てることはけっしてなかった。凜《りん》とした姿は、まるで人外の女仙かなにかのように見えて、無礼があれば罰として戦の勝機を奪い去られてしまうのではないか——本気でそうささやいている者もいるそうだ。  揺珠の安全のためにも、そして兵の士気のためにもよいと、羅旋は敢えてその噂を放置しているが、その羅旋でさえ、揺珠の姿を見て納得するほどなのだ。  その揺珠のまっすぐな愛情を、淑夜も受け止めようとしている。大牙たちですら、うらやましいと思うほどなのだ。無影が聞けば、みじめになるばかりだろう。 「ま、たしかにあいつには、過ぎた妻女になるな」  大牙が、大口をあけて笑った。 「ぬかせ。玻理も、おまえにはもったいない女だぞ」 「玻理の方から俺に惚れたんだ、ほうっておいてもらおう。それより、おまえの方はどうなんだ。今まではそれでもよかっただろうが、王になって、女のひとりもいないというのは——」 「かっこうがつかんか?」 「そういうわけではないが」 〈琅〉は、形式にこだわらない国だ。  先王・藺如白《りんじょはく》にも、その前の藺孟琥《りんもうこ》にも、妃どころか側室もいなかった。藺孟琥は幼い時から病身で、早世したために妻を娶《めと》れず、藺如白も部屋住みの時期が長かったために、その機会がなかったからだ。  だが、妃がいないということは、後継者の問題が起きやすいことにもなる。今すぐ、無理やりにという話にはならないだろうが、そのうち正妃を——という話にはなるだろう。 「まあ、昔、義京にいた頃には、適当に手を出していたような話も聞いたが——本気になった女は、いないのか」 「ここだけの話だ。昔、ひとりだけいたが、ふられた」 「おまえが、か?」 「正確にいうと、惚れた時にはもう人の女房だった」 「——まさかと思うが、もしや、それは」  思わず声を落とし、口ごもった大牙に、 「そんなに恐そうにいうな。そうだ、暁華の奴だ」  羅旋は、笑い声をたてた。その声は、思った以上に明るい。 「——昔、そうではないかと士羽兄者がいった時には、鼻で笑ったものだが」  と、大牙は頭をかかえたが、羅旋はいっこうに気にしない。 「間抜けな話だろう。尤家と親父とが付き合いがあったから、子供の時から知っていた。久しぶりに会って、いい女になったなと思ったら、他の男と私奔《かけおち》してきたところだった。また、相手の男というのがいい奴で、たちまち意気投合してしまった」  羅旋の目はたしかに笑っていた。慎重にのぞきこんだ大牙は、羅旋の態度が演技でないことを確信した。暁華を思っていた時期があったとしても、それはもう、過去のことになっているらしい。 「——だが、相手は早くに死んだんだろう」 「その時期、親父が殺されて、俺は身の危険を感じて身を隠していたんだ。暁華は暁華で、家業の商売が性にあっていたらしく、再嫁というのも面倒そうだったしな。今となっては、なおさらだ。商売をやめろとは俺にはいえん。俺としては、俺の方が暁華のところへころがりこんでもいいが、そうすると、おまえたちが困るだろう」  王位を放り出して、商家に婿入《むこい》りするというのだ。とんでもない話に、大牙は、あわてて首を横にふった。 「頼むから、戦の前に、そんなことをいわないでくれ。いくら昔の話でも、士気に関わる」 「心配するな。だから、昔のことだといっている。いや——今でも、惚れていないといったら嘘になるが——どうも、うまいことばがないな。俺が、別な国の形がつくりたくてうろついていたその間、あいつも同じことを考えていたようだ。そういう意味では、俺たちは共犯なのさ」 「だが、尤夫人は〈衛〉の方に期待していたんじゃないのか」 「あれは、暁華の性分もあるだろう。困っている奴を見ると、黙っていられなくなって世話を焼きたがるという——」 「あの無影の世話を——? あまり不器用なので、見ていられなくなったとか?」  大牙の目から見ても、耿無影のかたくなさは過剰なものがある。だが、彼に同情する女の心情は、理解しがたい。羅旋も、影のさした顔で笑って、 「たぶんな。〈琅〉へ来なかったのは、俺は放っておいても心配ないと思ったんだろうさ。いざという時のために、恩は十分売りつけてあるしな」 「男と女の話には聞こえんな」 「俺もそう思う。つまり、俺は暁華にとってはふさわしい『男』ではないし、俺も暁華を『女』と見ていないんだろうよ。そのうち娶るにしても、王となれば、好悪だけではなんともならないだろうしなあ」  どうも、色恋沙汰とは無縁なことばになってきて、大牙はそれ以上の追及をやめた。 「まあ、瀘丘にいるのは心配だが、野狗《やく》が始終、見張っているし、なにより本人が出ないというものをひきずり出すわけにもいかない。事態に展開があれば、自分から出てくるだろう。あれは、そういう女だ」  羅旋も、それでその話を切り上げた。  羅旋の天幕を出た淑夜は、陣営の一番中央にある揺珠の天幕へ行く前に、寄り道した。 「徐夫余《じょふよ》——」  大牙と合流してこの方、大牙の補佐として〈鄒〉まで行っていた徐夫余である。ともに帰ってきたが、報告はひとりでいいと大牙にいわれ、自分の部下のところへもどっていたのだ。  一般の兵にまで、天幕は行き渡っていない。淑夜も昔、経験があるが、土の上に草を敷き木や石を枕に休むのだ。徐夫余は羅旋の副将をずっとつとめ、通常なら天幕が持てる地位にあるが、今回は、山越えをする際、荷物を極力減らした関係で数が少ない。徐夫余は他の者に天幕をゆずり、自分は部下たちといっしょに休むことにしたらしい。  淑夜に呼ばれて、その場を離れながら、 「私は、慣れていますから。むしろ、こちらの方が落ち着くんです」  笑って淑夜に答えた徐夫余だが、次の淑夜のことばを聞いて、表情をこわばらせた。 「壮棄才どのが亡くなったことは、もう聞いていると思う」 「はい」 「あの人が、耿家といきさつがあったことも、知っているはずだが」 「はい——」 「聞かせてもらえないか。徐夫余に訊けと、棄才どのにいわれた」 「私も、そんなに詳しい話は、聞いていないんですが」  徐夫余の困惑が、自分を傷つけまいとする配慮だと知って、淑夜はかすかに笑った。 「棄才どのに、なにか遺恨を残すことを心配しているのなら、無用だ。恨まれていることは知っていたが、直接、何かあったわけでなし。今さらどうこうするつもりはない」 「——淑夜さまを恨んでいたわけではないんです、あの人は」  ほっと安心したように息を吐きながら、徐夫余は重い口を開いた。 「耿逖《こうてき》という人をご存知ですか、淑夜さまは?」 「逖——?」  しばらく考えていた淑夜だが、 「祖父と同世代の一族に、そういう名があった。でも、会ったことはない。族譜で見たことがあるだけだ。耿氏といっても、分家筋の末裔で——無影よりも、さらに血縁は薄い」 「そう、棄才どのもいっていました。それに、二十年も前の話で、淑夜さまはまだ子供だったはずだと」 「その、耿逖が?」 「棄才どのの妻に横恋慕して、奪っていったのだそうです、婚礼のその夜に」 「————」 「棄才どのが取り返しにいった時には、妻女はすでに自害して果てた後で——壮棄才どのは耿逖を殺して、いったんは捕らえられたそうです。棄才どのの弟が力ずくで救いだしたものの、弟もその時に亡くなったとか。その後、義京に逃げこんで無頼に混じって暮らしているうちに、羅旋と知り合ったと」  ありふれた——といっては語弊があるかもしれない。だが、決してめずらしくない事件だ。特に、卿大夫《けいたいふ》が国の| 政 《まつりごと》を独占していた時代、本人が権勢を握っているわけでもないのに、その一族だというだけで横暴をふるう者がいたし、それが平然とまかり通っていた。 「耿家の人間は妻と弟の仇《かたき》だ、一生許すまいと思っていたと、棄才どのはいっていました。逆に淑夜さまが、自分を一族の仇と知っているのではないかと、不安だったとも。それはすぐに杞憂《きゆう》だとわかったものの、淑夜さまの存在はどうしても認められなかった、耿家の人間が良い人であってはならないと思っていた——思い込みたかったのだと、いっていました。でも、淑夜さまを憎んだことは一度もないとも」  淑夜は無言でうなずいた。その後の経緯は知っている。その後の壮棄才の態度も、そして憎悪の奥で迷っていた彼の真情も、今ならわかる。  今の淑夜にできることは、壮棄才の過ちを繰り返さず、同時に彼の遺志を継ぐことだけだ。そして、その決心はとっくの昔についている。 「棄才どのは、これを聞いたら淑夜さまが責任を感じて、自分の怨念《おんねん》にとらわれてしまうのではないかと心配していました。でも私に訊けといったのなら、それは杞憂だと確信できたからなのでしょう。どうか、淑夜さま——」 「わかっている。無駄にはしない」  ただ、疑問を解いておきたかっただけで、他意はない。 「こんな遅く、疲れているところを済まなかった」 「いいえ」 「おまえがいてくれて、よかった」  淑夜は、心からそう思った。徐夫余が庶民の出で、〈衛〉にも耿家にも無関係だったからこそ、そして温厚で人を恨むことなど思いもつかないような青年だったからこそ、壮棄才はすべてをうちあけていったのだ。何もわからないままでは、自分の死後、淑夜が悩み傷つくだろうことまで予測して。 「淑夜さま」 「心配ないよ。これで、無影とも真正面から戦える」  夜が更けていく。  数日後には確実に訪れるその日を、淑夜はむしろ、待ち望んでいた。      (三)  無射《ふえき》(十月)、末日。  それが、無影が指定した戦の日取りだった。大牙と会見してから、十五日も後のことである。  場所は、麦城の北の、夢沢《ぼうたく》と呼ばれる野だった。その名のとおり、昔は沼沢地《しょうたくち》だったという平坦な土地で、膝のあたりまで草が生い茂っている点では、西方に似ているかもしれない。  戦車主体の戦では、どうしてもこういった平地が必要なのだ。羅旋が場所を選んだなら、もっと高低の激しい、そして岩が露出しているような土地を選んだだろう。馬と歩兵が主体なら、足場の悪さは車ほど影響しないからだ。  一歩、譲られたという意識が、無影の気持ちを微妙に乱していたのは事実だった。戦は、連姫の体調の回復を待たねばならなかったから、〈琅〉側が指定してきたとしても、無影は従うわけにはいかなかっただろう。場所にしても同様だ。  だが、それを最初から見越されたことを、彼は同情と受け取ったのだ。もしかしたら、〈琅〉軍内に淑夜がいなければ、そう思う必要もなかったのかもしれないし、いなくても同じことを考えたかもしれない。羅旋や大牙のやり口は、無影も熟知していた。 「正々堂々というふりをして、そのくせ後ろでこそこそと小細工をしてくる奴らだ」  そんなことばで貶《おとし》めるしか、無影は自分に寄せられた気持ちをはねかえせなくなっていた。 「霧が深いな」  その日の早暁《そうぎょう》——まだ闇の底も白くならないうちに、無影は装備を整え終えて天幕の帳幕をはねあげた。  何重にも衛兵が囲んだ天幕の中には、美しい色彩がうずくまっている。それをちらりと目の隅で見ると、 「早目に温涼車《おんりょうしゃ》に移っておいた方がいい」  彼にしては、抑えた声で告げた。反応を起こさない色彩のかわりに、 「——心配ございませんのでしょう? 味方の数は、敵に倍すると聞いております」  ここまで|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》君にしたがってきた侍女の班姑《はんこ》が、不安をかくしきれない声で訊いた。ふだんなら、その声だけで無影の癇《かん》にさわっただろう。だが、この日、無影は自制がよくきいているようだった。 「戦には、何があるかわからぬ。どういうことになっても心配ないよう、手配してあるから、何かあったらまっすぐに瀘丘へ向かえ。瀘丘の尤夫人を頼れば、最低限、身の安全は保証されるはずだ」 「陛下——」 「いいか、躬《み》を待つな」  こちらを見ようともしない影に、短い一瞥《いちべつ》を投げて、無影は帳幕を降ろした。 「あのようなこと——戦の前にいわれるとは、なんと心無い。あれでは、お方さまを不安にさせるだけではありませぬか。ご自身のためにも、縁起のよいことばをおっしゃらなければならない立場の方が」  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》君——|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]連姫《しんれんき》は応えなかった。  班姑が憤慨しているのは、わざとだと知っていた。ほんとうなら、自分の方から祝福し無事の凱旋《がいせん》を待つと口にしなければいけないはずだ。それをいえない連姫に、無影をなじる資格はない。  それに連姫はもうひとつ、おさえようのない不安を胸にかかえこんでいた。班姑の憤慨とは、理由がちがう。 (——あの方は、淑夜さまのことを口にしなかった)  こんな時、あてつけのように出していた淑夜の名を、無影はついにいわなかった。耿淑夜が何里か先の敵陣にいて、戦の指揮を執っていることは、〈衛〉軍のだれもが知っている事実だった。だが、以前ならこんな場合、 「淑夜が勝つのを望んでいるんだろう」  ぐらい、ひとこと、無影はかならず口にした。いわなくても、連姫には直前で呑みこんだ無影の皮肉が手にとるように読めたのだ。  たった今、出ていった無影は、何も隠さなかった。腹の底から思ったことだけを告げているのが、連姫にはよくわかった。なにより、われとわが身を焼くようなつらい顔を一度もしなかった——覚悟を決めた、悲壮な表情はしてはいたが。  もともと、線の細い青年だった。左頬の傷がなければ、今でも文弱の学者のように見える。あの癇の強さが——意志の強さが、思えば無影という青年をあそこまで追いこんでしまった。無影がああなったのは、けっして淑夜のせいではない。無影を滅ぼすのは、無影自身だ——。  そこまで考えて、連姫はぞっと冷水を浴びせられたような気がした。 (滅びる——?)  五年前なら、むしろ歓迎したと断言できる。閉じこめられ監視され、生命のない物のように独占される息苦しさから解放されるなら、〈衛〉もろとも滅んでもよかった。積極的に無影の死を願わなかったのは、その勇気がなかったからだと思っていた。  だが。  ——私は、あの人に死んでほしくないと思っている?  もう一度、生きて戻ってきてほしい。訊いておかなければならないことばがある。それが何なのか、よくわからないけれど。 「お方《かた》さま。さ、車へお移りを」  準備をととのえて、班姑が催促した。  侍女たちが数人、天幕の中へはいってくる。無影は、連姫に不便な思いはさせたことがなかった。どんな戦場でも数人の侍女をつけ、大きな天幕を用意し、食物も衣服も、化粧道具さえ運ばせている。窓つきの温涼車は中も広く、簡単な調度もそろっていて、快適にすごせるようになっている。  だが、外に勝手に出られないのは、閉じ込められているのと大差ない。天幕から温涼車に移る際には、歩障といって移動式の帳幕を侍女たちが捧げ持ち、連姫の姿を一瞬でも外に見せないように配慮するのだが、これも息苦しい。 (でも、そういえば、私は一度も嫌だといったことがなかった)  いや、一度だけ、同行するのを拒否したことがある。だが、それは許されず、結果、無理がたたって身ごもっていた子を流産してしまった。だが——。 (あの時、事実を告げていれば、無理強いはしなかったかもしれない。だとしたら——)  たがいに口にしなかったこと、それによってさらに事態をねじれさせたことが、突然、ひとつひとつ連姫の脳裏に浮かんでは消えた。  こんな時になぜと、連姫はとまどっていた。  なぜ、急に、無影を思う心が止まらないのだろう。なぜ、もっと話しておけばよかったと思うのだろう。もしや——。 「お方さま?」  歩障の中に入ろうともせず、ぼんやりとつったったままの連姫のほほに、ひと筋、流れるものを認めて、班姑が不審の声をあげた。 「どうなさいました。お身体の具合でも?」 「班姑、あの方を——」 「は?」  呼びもどして、といおうとして、くちびるがこわばるのを感じた。 「何か、おおせでしたか?」 「いいえ、なにも」  いまさら、何をいえばいいのだろう。なにかいわなければ、後悔するとわかっていても、連姫にはなにも考えつかなかった。  そのまま、うながされるままに歩障の中に身を入れる。  温涼車の中に落ち着いて、ひとりになったとたん、涙が止まらなくなった。止める気もなかった。泣いて無影が戻ってくるなら、永遠に泣き続けてもいいと思っていた。  ——この時、両陣営の奥深くにはひとりずつ、美姫とよばれる婦人が守られていた。後に、この戦が「双姫《そうき》の戦」とも呼ばれる所以《ゆえん》である。  一方の姫とは、玉公主・藺揺珠だが、深窓の姫君育ちの揺珠は、この日、車にも乗らず、顔や姿を隠すものもいっさい、周囲には置いていなかった。  上衣の上に、さらに粗い白麻の衣をはおっていたものの、 「どうぞ、よけいな配慮はご無用に。わたくしひとり、特別扱いをされるわけにはいきません」  夜、天幕には休んでも、余分の衾《ふすま》は断って、藁筵《わらむしろ》の上で眠っているぐらいだ。淑夜が、 「霧が深い。濡れますから」  本営の天幕の中にはいっているように告げても、 「戦が終わるまで、ここにいます」  天幕の前に、急ごしらえの床几《しょうぎ》を据えて、腰かけていた。かたわらに茱萸が、こちらは胴甲をつけ弓を小脇にかいこんだ、甲斐甲斐しい女戦士の姿で控えている。  背後には、騅《あしげ》の超光が静かに草を食《は》んでいた。  淑夜もそれ以上はうるさくいわず、片手に杖を持って、茱萸とは反対側に立った。彼もまた、革の胴甲に革の籠手《こて》とすね当てをつけただけの軽装である。 「こうしていると、まるでわたくしが将軍のようですね」  と、揺珠は冗談をいう余裕まである。淑夜も、 「総大将が先頭切って飛び出す軍ですからね、仕方ありません」  苦笑で応えるしかなかった。  実は、事態はかなり深刻だった。  無影は、取り戻した八城に一兵も入れなかったのだ。 「見抜かれましたね。無駄になりました」  と、淑夜が申しわけなさそうな顔をすると、大牙がにやりと笑って、 「そりゃあ、見抜かれたんじゃない。おまえの考え方が、無影に似てきたのさ」 「——似てますか?」  意外というより、不服そうな顔つきになった淑夜に、今度は羅旋が、 「おまえが無影の立場なら、こんな時どうする。やはり、八城は捨ててかかるんじゃないのか。たとえ叛乱《はんらん》を起こされたとしても、この戦に勝ちさえすれば、問題はない。俺たちを片づけた後なら、城市が抵抗しても攻める時間は十分にある。そもそも、そうなったら勝ち目はないから、むこうから降伏してくるはずだ。としたら、兵力はすべて、まず目の前の戦にふりむけた方が得策だ」 「やはり、そう思いますか。無影はもっと慎重に出てくるかと思ったんですが」 「慎重な奴が、国を乗っ取ったりするもんか」  羅旋の視線は、淑夜に向けられていた。つまり、無影だけではなく、淑夜をも「国を乗っ取った」者と指したのだ。  事実、淑夜は昔、〈容〉の国政に、本来は部外者の大牙を割りこませたことがあるし、今回も羅旋を〈琅〉の王位に、まんまと就けてしまった。画策したわけではなく、状況に乗じて利用したのだが、結果としては同じことだろう。 「おまえたちは、よく似ている。それは、いまさら否定できない事実だ。おまえにはおもしろくないことかもしれんがな」  そういう羅旋の目は、笑っていた。淑夜がどれほど冷徹な策をたてようと、第二の無影にはならないことを知っている目だった。 「唯一の救いは、〈鄒〉に思ったより多く置いてきてくれたことだな」  嘆息する淑夜に助け舟を出してきたのは、大牙である。 〈鄒〉には、結局、一万二千の兵が残された。新都に在る羊角が一万、それに〈征〉が兵力をかき集めて二、三千とふみ、それに互角に戦えるだけの数を残してきたのだ。それは、無影のぎりぎりの心遣いだったのだろう。 「百来を失えば、〈衛〉にはめぼしい将がいなくなる。いくら無影が万能で、将才があるといっても、広い国だ。ひとりで戦をするわけにはいかない。百来は、生かしたいと思ったんだろう」  おかげで、この夢沢へ到着した〈衛〉軍は三万をすこし出るほどになった。 「三万……一千か二千、対一万七千か」  相手の数は、斥候《せっこう》の報告に加えて、五叟老人が雲気を見てわり出した。 「この〈坤〉の覇権をかけた戦としては、すこし物足りない気もしないでもないが、ま、こんなところだろうよ。いいさ、おもしろい戦にするかしないかは、俺たち次第だ」  そういって、羅旋は最前線へと出ていった。王自らが、前軍の指揮を執るなど、前代未聞だが、止めても止まる相手ではない。 「約束だったな。王になっても俺は、うしろでふんぞりかえってはいないぞと、いったはずだ」 「止めませんよ。ただ、無理だけはしないでください。相手は、無影ですよ」  大牙も、羅旋の配下のうちの一隊をあずかり、左車《さしゃ》たち戎族《じゅうぞく》とともに出ていった。必然的に、淑夜がもっとも後方の本営に残り、場合に応じては全軍の指揮を執ることになる。 「羅旋なら、前線からだって命令を出してきます。私はそれを受け取り、必要なところへ出し直すだけです」  と、淑夜は揺珠に笑ってみせた。 「それと、退却の時期を見定めること、ですか、私の仕事といえば」 「退却といっても——」  平然という淑夜に、さすがに揺珠が困ったような表情で、 「どこへ逃げたらよろしいんですの?」 「戦車を捨てれば、逃げこむところはいくらでもありますよ」  と、淑夜は微笑を絶やさない。 「それに、こういってはなんですが、歩卒なら、捕らえられても殺される心配はないでしょう。ひとりふたりならともかく、一万五千もの人間は、殺すより生かして働かせて、税でもとった方がよほど国のためです。負けたとわかったら、抵抗せずに、なるべく偉そうな相手を選んで投降《とうこう》するよう、周知させてあります。問題は、羅旋や大牙——徐夫余あたりもむずかしいでしょうかね、〈琅〉軍の中枢となっている者たち、それに左車たち戎族の身のふりかたです」  むろん、その中に淑夜自身もはいっている。 「さいわい、この人たちはほとんどが馬に乗れます。馬で逃げるかぎり、追いつけるものはありません。戦をする気がなければ、今からだって敵陣を突破して逃げられるかもしれませんよ。〈琅〉軍の長所は、逃げることを恥と思わないこと。逃げる時には、大きな集団にならず、ばらばらになってしまうこと。そして、いったん離散してもすぐに集結できることです」 〈衛〉が勝ったとしても、国内で〈琅〉の中枢を全員捕らえるのは、至難の技だろう。 「もしかしたら——負ければ、〈琅〉という国は無くなってしまうかもしれません。ただ、再起の芽は残せると——残したいと思っています」  実は、本人には伏せてあるが、揺珠に関しては五叟老人が、ひそかに小舟を用意している。いざとなったら、湖を渡って彼女と茱萸は、南へ落とす手筈になっている。南から、大回りして西へ帰すのだ。距離といい危険な行程にはなるだろうが、五叟老人がついていればなんとかなるだろうと淑夜は思っている。むろん、彼自身は羅旋たちと行動をともにするつもりだ。  心配でないわけではない。  だが、信じようと淑夜は決めていた。 (八年前、巨鹿関で朽ちていたはずの生命だ。それがここまで生き延びたのは、天が私に何かをさせるためだ。なら、こんなところで、なにも成さずに死ぬわけがない)  生きているかぎり、何度でもやりなおせる。やりなおしてみせると、淑夜は思い定めていた。 「お邪魔だったかな」  と、五叟老人が霧の中から顔を出したのは、そんな時だ。 「先生、霧の方はいいんですか」  五叟は、方術の支度とやらで、ひとり離れた天幕にこもっていたはずだ。術といっても、どんな作業をするのか淑夜も揺珠も知らないのだが、むずかしいしきたりや呪文《じゅもん》などがあるものだと思っていた。これだけの濃い霧を維持するためには、それなりに意志の力をこらさなくてはならないはずではないか。  そう思って尋ねたのだが、五叟はにやりと笑って、 「これか? この霧は天然のものじゃ。儂がよけいな手出しをするまでもなかったわい。どうやら天は、そなたたちに肩入れしたようじゃな」  黄色い歯をむき出して、にやりと笑った。 「羅旋の奴は、もう出ていったのか」 「はい。騎馬と戦車と歩卒を、完全に分離して、騎馬は先頭に置きましたから」  騎馬の軍は、羅旋と大牙、左車がそれぞれ二千の兵を率いて、〈衛〉軍の中央、本陣めがけて突撃をかけることになっている。戦車軍を指揮するのは方子蘇で、これは騎馬軍の後詰めの役目である。戦車一台につき数人ずつが付き、残りの歩兵は〈琅〉の本営周辺の防備にあたる。  さらに、徐夫余が千名の騎馬兵をあずかって本営近くに控え、親衛軍と、場合によっては遊撃軍を兼ねていた。  変則的な布陣だが、騎馬の速度と破壊力を最大限に生かすには、これが一番だろうと羅旋と左車で相談したのだ。 「要するに、戎族のやり方だ。叩くだけ叩いて、さっと逃げる。相手が追い着いてこなくなったら、また戻って叩く」  騎馬兵の大半——特に左車の戎族は全員、騎射の名手だから、これは威力があった。  また淑夜は歩卒にも弓の訓練を急いでさせて、急拵《きゅうごしら》えの弓兵を仕立て、本営の周囲に配置した。ちなみに、その分の武器は〈衛〉の各城から取り上げたものである。 「さて、うまくいくといいな。無影の奴めは、数を恃《たの》んで鶴翼《かくよく》の形に陣を広げたぞ。こちらを押し包んで、三方から攻めたててくるつもりじゃ」  方術で見たのだろう。こういうところは、たしかに便利な代物だ。 「数が多ければ、数で圧倒してくるのが当然です。思ったとおりですよ」 「勝てるかの?」 「わかりません」  淑夜は、正直に答えた。 「戦に、絶対ということはありませんから。でも、私は今までずっと、不利な戦ばかりしてきました。うてるだけの手は、みんなうちましたから、いまさら、心配してもはじまりません」 「なかなか、度胸がすわってきたな。よいことじゃ。無影も、そなたと同様に平静でいればよいな」 「そう思います」  淑夜が、心からそう答えた時だ。  不意に、空気の匂いが変わった。  もっとも敏感にそれを察知したのは、茱萸である。 「——風が」  彼女がそうつぶやいて立ち上がった時には、淑夜の顔にも五叟老人のしわだらけの額にも、緊張の色が走った。 「風が吹く」 「北風じゃな。それも、相当強くなりそうじゃ」 「霧が——」  霧が吹き飛ばされてしまう。しかも、風は向かい風だ。味方は不利になる。 「この風は、妙です」  ふと、揺珠がつぶやいた。 「ほんと、変な匂いがする」  茱萸がそれをうけて、鼻をせわしなく鳴らす。 「薬の匂い。香料の匂い」  それから、 「悪い匂いがする」 「先生——」  淑夜が叫んだ。 「霧を——もう少しの間でいい、維持できませんか」  この霧に紛れて、騎馬軍ができるだけ敵陣近くまで忍び寄り、奇襲をかけるというのが、〈琅〉の策だった。  霧を使って攪乱《かくらん》する策は、八年前に大牙がやはり無影相手に使って成功している。ただ、その翌年、今度は無影が南の蛮族に対して同じ策を使ってみせた。無影に手のうちは読まれているこの策を、淑夜は敢えて、二度目に仕掛けたのだ。  読まれている策を、再び仕掛けてくる者はいないだろうという、無影の思いこみの裏を衝いたのだ。  この策を封じるためには、一方方向を常に示す器具が必要だ。「指南」と呼ぶその器具を、まさか新都攻略のために準備していたはずはないだろう。一方、淑夜たちは最低限の数の「指南」を、その場で作り、羅旋たちに持たせた。  霧さえ晴れなければ、「指南」に導かれて、羅旋たちは〈衛〉軍の本営近くまで到達できるはずだった。  羅旋たちが、現在、どの程度の距離を進んだかはわからないが、鼓声《こせい》(進軍の合図)も鯨波《とき》の声も聞こえないところをみると、まだ予定の地点には到達していないはずだ。  せめて、そのあたりまで姿を隠すだけの霧が維持できれば、と思った淑夜に、 「心配要らぬ」  五叟は、今まで見たこともないような真剣な表情で、断言した。 「この風は、織りこみ済みじゃよ」  あっと、淑夜は叫びそうになった。 「この風、もしや、方術の——」 「そのとおり」  五叟が、うなずいた。 「冉神通《ぜんしんつう》めが、しゃしゃり出てきおったのじゃよ。儂が、この霧を起こしたと思うてな」  五叟の兄弟子だという老人の名は、淑夜も耳にしていた。ふたりの間の確執も、彼がいつの間にか〈衛〉に仕えていることも。そして五叟老人より、術の力ははるかに上だということも。 「——だめだったか」  めずらしく、淑夜がうめくような声で弱音を吐いた。  五叟はきっぱりと首を横にふった。 「いいや、これは儂らの勝利の風じゃ」 「五叟先生?」 「風を吹かせるなら、思いきり吹かせるがよいわい。向かい風なら、人馬の音は〈衛〉軍には届かぬ。戦端を開くなら今じゃ」  あっと、淑夜は叫びそうになった。 「先生、まさか、冉神通をわざとひきこんだんですか」 「天がそなたらに味方したといったのは、こういうことじゃ。不自然な風が、どういう結果をもたらすか、よく見ておくがよい、耿淑夜。人を術であやつることはできる。しかし、天を人知であやつることは、出来ぬことだと思い知るがよい——」 [#改ページ]  第四章————————興亡賦      (一)  戦《いくさ》には勝機というものがある。  天秤《てんびん》がどちらかに傾く、その一瞬をとらえ、引きこんだ方へ天秤は傾くのだ。  北風は、この時の〈衛《えい》〉と〈琅《ろう》〉、双方にとって予想外のものだった。それが人為的《じんいてき》なものであれ、自然なものであれ、無影《むえい》がこの瞬間に機敏な判断を下しさえしていたら、勝利は〈衛〉の方へころがりこんでいたはずだ。まちがいなく、風は〈衛〉にとっては有利な方向に吹いていた。ここで全軍が一斉に攻撃を開始していたら、数で劣る〈琅〉は支えきれなかっただろう。  たしかに、〈衛〉軍は士気《しき》が衰えていた。長い期間、戦地にあって疲労の限界に達していた上、目に見える戦果は新都の攻略だけで、それも陥としたと思ったとたんに、退却しなければならなかった。  だが、ここで無影自身が先頭を切って飛び出していたら、その空気も一変していただろう。なんといっても、無影は義京《ぎきょう》の乱以降、〈衛〉を安泰に保ち、ここまで生き残らせたのだ。政治も軍事も、彼に任せておけばよいという風潮がたしかにあった。  美々しい甲冑《かっちゅう》をつけた無影が、戦車もろともに走りだしていたら、将兵たちもつられて駆けだしただろう。三万の軍勢が雪崩《なだれ》となれば、止めることはできない。  だが、一瞬の風を、無影は看過《かんか》した。  有利な風だからこそ、慎重になったのだ。自軍の疲労と消耗を考えれば、できれば〈琅〉軍を手もとにひきつけておいて、一気にたたきたいという気持ちもあった。また、淑夜《しゅくや》たちが自分たちの陣の周辺に、なにか罠《わな》を仕掛けている可能性も捨て切れなかった。これまでの〈琅〉の戦の仕方を見ていれば、誘い出されて深入りする危険性は、十分にあった。  決して弱気になったのではない。だが、無影は基本的には守勢の人で、羅旋《らせん》のような猪突猛進《ちょとつもうしん》型ではなかった。たしかに、行動を起こして〈衛〉一国を奪いはしたが、そこから先は、無益な戦は極力避けて、中原の動きを静観することで、〈衛〉の力の拡大をはかってきたのだ。それが、今回、自分から動いたとたんに、こんな事態にまで至った。  彼が、慎重の上にも慎重になるのは、無理もなかった。  一方。  赫《かく》羅旋は、勝機など待ってはいなかった。  彼は本来、状況が不利に動いてこそ、真価が発揮される漢《おとこ》だ。一瞬の迷いが状況をどう変えるかを、熟知していたともいえる。風が吹き始める、その一瞬を、茱萸《しゅゆ》と同じく戎族特有の勘《かん》で察知するや、 「鼓《こ》を鳴らせ!」  よくとおる声で、きっぱりと命じたのだ。  命令を聞き返す者はいなかった。こんなときにと、疑う者、逡巡《しゅんじゅん》する者もひとりもいなかった。羅旋が告げたことばを、そして霧の中を走りだした影を、耳にした者、目にした者が反射的に従った。 「行け!」  先頭で打ち鳴らされる進軍の鼓声は、風に乗って〈琅〉軍の後方へと流れた。これは、錐《きり》形に陣形を組んでいた〈琅〉には、たしかに都合のいい風だった。  鼓の音も馬蹄《ばてい》の音も、それが〈衛〉軍の先頭に達するより先に、〈琅〉の騎馬軍の末端まで届いていた。  ちょうど、夜が明ける瞬間だった。  強い北風によって、霧はぬぐわれたように去ってはいたが、北の空からは風を起こした黒雲が迫り、あたりはうっすらと明るさがわだかまる程度である。むろん、〈衛〉軍はまだ、動きもしていなかった。その先頭と、羅旋の率いる二千の騎馬兵が接触したのだ。  同時に、左車、大牙がひきいる二千が、それぞれ左右の軍に襲いかかった。 「莫迦な——」  前軍を指揮していた将のひとりは、突然開けた視界を、また突然、黒い馬によってさえぎられて茫然《ぼうぜん》となった。自失したまま、彼は喉首《のどくび》を一本の矢に射抜かれて絶命した。おそらく、自分が死んだことすら自覚しないままだったのではないだろうか。 「悪いな。これも戦だ」  戦車を操っていた御者《ぎょしゃ》が、たくましい黒馬にまたがる偉丈夫《いじょうふ》がつぶやくのを、瞬時に聞いている。だが、そのつぶやきもすぐに後ろへと飛びすさっていってしまった。  戦車は、急には反転できない。とっさに追うこともできない間に、次の馬が車の脇を通りすぎる。戈《ほこ》を持つ甲士は、せいいっぱい武器をふりまわしたが、行き過ぎた馬には届かず、後続の馬ははるか手前で十分な距離をおいて避けていった。  避けながら、通りすがりに矢を二、三本は射ちこんでいくのだから、たまったものではない。弓手もまた、同様。相手が早すぎて、射っても射ってもほとんど的中しない。強風の中だから、なおさらだ。逆に〈琅〉軍にしてみれば、止まっている戦車を射つほどたやすいことはない。強い逆風もまた、通り過ぎてふりむきざまに射れば、順風となる。ついに、戦車上の甲士の中には、身をすくめて矢を避ける者まで現れた。  身を守る術のない歩卒たちは、逃げまどうしかない。矢を受けるまでもない、走る馬の蹄《ひづめ》にかかれば、まちがいなく重傷を負う。そして、歩卒たちは長尺の武器も弓矢などの飛び道具も、盾すらまともに持っていないのだ。  人を乗せた馬の、すさまじい速さと機動力に、彼らは攪乱された。話には聞いていたが、直接、対峙《たいじ》するのは初めての兵たちばかりなのだ。  対策として、戦車と戦車の間を詰めることも考えた。戦車間に縄を張ることも、地面に縄をはりめぐらせることも。  だが、それらはすべて一度、漆離伯要《しつりはくよう》が試みて失敗した策である。戦車間を詰めれば、馬は大回りして背後から衝いてくる。縄は、結局、自軍の行動範囲をも制限してしまう。それでなくとも機動力で劣る戦車が、さらに動きが悪くなってしまう。 「正攻法でいくしかない」  無影も、結局、数の優位で押し切るしかないと考えた。  一方、羅旋たちも、馬を止められてしまう可能性を考えていた。そして、無影と同じことを考えたあげく、 「戦車の群れの中へつっこめ。奴らが動けるところには、罠はない」  そう判断したのだった。 「無駄な矢は射るな。歩卒は見逃せ。戦車の上でふんぞりかえっている奴だけを狙え。自信がなければ、かわいそうだが馬を狙え」  前もって、羅旋は弓を持つ者には全員、言い渡してある。  最後の台詞は、馬を大切にする左車以下の戎族への配慮だ。むろん、馬を狙わねばならないような下手な戎族はいないが、聞いた左車は、 「さすがは、羅旋だ」  と、にやりと笑った。  羅旋は、右に左にと矢を射ちわけながら、あっという間に前軍の間をすりぬけてしまった。走りながら、後続の騎馬兵たちを確認する。 「小参《しょうしん》——!」 「はい!」  すぐに、少年が馬をたくみに操りながら寄せてきた。 「怪我《けが》人の状況は」 「ほとんどないようです」  少年の頬に、すこしかすり傷があったが、その後に続いて集まってきた漢たちの怪我も、その程度だ。騎射が主なため、返り血を浴びている者も少ない。  騎射は戎族が得意とする技だが、鐙《あぶみ》の工夫によって馬の上で楽に身体を安定させられるようになって、〈琅〉軍の中でも巧みな者が増えている。その成果が、ここで十全に発揮されたというわけだ。 「連中、反転してくるか」 「いえ、今度は、方子蘇将軍の戦車軍が相手になっています。そちらの対応で手いっぱいのようです」  すこし速度を落としたとはいっても、走りながら、馬上での会話である。 「馬の疲れは?」 「まだ、心配ないと——」  全速力で駆けさせた場合の馬の持久力というのは、案外短い。〈琅〉軍には西方産の、体格のよい馬が多いため、全体の持久力は他の馬とはくらべものにならないが、やはり限界はあるのだ。それを越えて走り続ければ、馬はつぶれ、乗り手は徒歩で敵軍の中に取り残されることになる。 「よし、このままつっこむ。ついてこられるな」 「はい」  小参は戎族の血をひいているとはいえ、〈琅〉軍の中では年少の方だ。体力も、与えられている馬も平均以下だろう。人並み以上の体格と、月芽《げつが》というこれまた傑出した黒馬を愛馬とする羅旋なら楽々とこなせることでも、小参には無理なこともある。少年の答えを参考に、彼我《ひが》の間を計って全軍の状態を把握する——。戦の間に、それだけのことをしてのけて、羅旋は月芽を加速させた。  風は、さらに強くなる。  北の空は黒雲で被いつくされ、とっくに明けているはずが、周囲はどんよりと暗いままだ。その上、ぱらぱらと風に雨がまじりはじめた。それを頬で受けた羅旋は、 「ありがたい」  わざと大声で叫んだ。 「火をかけられる恐れが、なくなったぞ」  逆風で一番こわいのは、風上から火をかけられることだ。戦場の怒号や血には慣れるよう訓練された馬たちも、火には弱い。実は、風を感じた瞬間に、羅旋の脳裏にもその恐れが走ったのだが、敢えて無視をした。火をつけられる前に、火元の風上に駆け抜けてしまうことを考えたのだ。無影が、いつその可能性に気がつくかと、正直、内心では恐れていたのだが、ついに無影は動かなかった。 「声をあげろ、敵の本営は目前だぞ!」  無影は、動けなかった。  動かなかったのではない。払暁《ふつぎょう》、前軍の先頭が前ぶれもなく、霧の中から現れた〈琅〉軍に接触したという報は、まもなく無影のもとへとどいていたのだ。  ふりだした小雨の中、 「全軍、進撃の合図を——!」  迷うことなく、無影は命令を下した。その判断と時期は、間違いではなかった。  さっと紅潮した左頬に、白い傷痕が浮かびあがる。先手を取らせたという悔しさは感じたが、まだ取り返せるという確信はあった。なんといっても、こちらの数は相手に倍するのだ。〈琅〉がこちらの本営を狙ってくるのなら、こちらも羅旋ひとりを狙えばよい。だが——。  鼓声とともに、戦車を進めはじめたとたんだった。  無影の戦車の周囲に、がらがらと耳ざわりな音が巡った。  南——〈琅〉軍へ向けて発進するはずの戦車のうちの何台かが、逆走してくるや、ぐるりと無影をとりまいたのだ。  無影の戦車に従っている歩卒《ほそつ》は、特に長尺の武器を持たされた親衛兵である。彼らがあわてて彼の戦車の周囲を固め、武器を構えたが、無影本人は微動だにせず、冷たい視線をぐるりと一巡させただけだった。 「何をしている——」  とは、無影は訊ねなかった。戦車上の甲士たちの意図は、目を見ればあきらかだったからだ。 「謀叛か」  北の暗雲から、低く不気味な音が響いた。ふつう、こんな冬近くに、雷が鳴るはずがない。不自然な天候が、この場の緊迫感をさらに強いものにした。 「きさまも昔、やったことだ。文句はいえまい」  中のひとりが、ふてぶてしく笑った。 「卑怯者! 戦のさなかに、味方を——!」  無影の戦車の陪乗《ばいじょう》の兵士が叫んだが、 「味方が聞いてあきれる」  他のひとりが、別方向から吐き捨てた。 「瀘丘と連絡が取れてみれば、きさまの腹心《ふくしん》が瀘丘に残してきた家族らを閉じこめ、兵や財産を横取りしているというではないか。これが、〈衛〉王のやり方か。戦の最中に、臣下を裏切るのが——」  無影にしてみれば、商癸父《しょうきふ》のとった手段はあずかり知らぬところだ。彼がこんな愚劣《ぐれつ》な方法に出るとは思ってもみなかったし、そういう意味では、一番裏切られたのは無影自身だったかもしれない。だが、商癸父を信用し、その手に瀘丘の守備を預けたのが無影である以上、弁解はできない。  目を光らせながら、無影はゆっくりと漢たちを見渡した。ひとりひとり、視線を向けられた漢が顔を逸《そ》らすのをたしかめてから、唇もとだけで笑ってみせた。 「いいたいことは、それだけか」  さすがに、長い間、一国の君主として君臨してきただけのことはある。ひとにらみしただけで、漢たちはかすかに後じさった。 「——きさまは、勝手だ」  それでも、多勢を恃《たの》んでひとりが口をひらくと、残りの者もいっせいに首を縦にふる。 「卑怯だ。〈衛〉一国を私物化し、無理な戦を仕掛けた結果がこれだ」  とはいえ、勝っている間はひとことも文句をいわなかったのも彼らなのだ。 「我らから累代の地位をとりあげ、名もない庶民どもに口出しをさせ——」 「おかげで、下衆どもがつけあがって、我らを莫迦にするありさまだ」  だが、従来の卿大夫の中でも、能力のある者——たとえば百来は、無影が〈衛〉の国主になる前からの座を動いていない。一度、謀叛をたくらんだ宮振でさえ、許されているのだ。むろん、才能のない庶民が、無影の私情で登用されたことは一度もない。けっして、理不尽なことをしてきたわけではないのだ。だが——。 「もう、まっぴらだ。戦に女を連れてこなければならんような腰抜けを、王に戴いているのは」 「では、どうする」  無影の表情には、微塵の変化もない。声の冷静さに、陪乗の兵たちが焦ったほどだ。 「いまさら、あの戎族に屈するか。戎族の下で、奴婢《ぬひ》となって働くか。いっておくが、赫羅旋という漢も躬《み》と同様、能無しはけっして人とは扱わぬぞ」 「能無し——」 「でなければ、畜生だ。人から餌をもらうことしか考えないくせに、芸ひとつできぬ」 「——ええ、いわせておけば!」  ことばより、無影の冷ややかな侮蔑の視線に、頭に血がのぼったらしい。 「殺《や》れ——!」  その声が放たれると同時に、無影も腰の剣を抜いた。その仕草があまりになめらかだったせいだろうか、一瞬、男たちは気を呑まれた。  雷鳴のような音が雪崩れこんできたのは、その間隙《かんげき》である。  わっという声は、叛乱を起こした男たちの間からあがった。 「何——!」  ふりむいた時には、その場に黒馬にまたがった偉丈夫《いじょうふ》が躍りこんできていたのだった。 「——羅旋!」  漢の正体を、ひと目で見抜いたのは無影だった。以前に会った時、羅旋は髭《ひげ》を伸ばして人相を隠していた。今の羅旋はくちびるの上に髭を残すのみ、革甲も武具も簡素なものながら、こんな戦場にあっても端正《たんせい》さが匂いたつような武将ぶりである。それでも、その特徴のある両眼の色と、光を無影は忘れてはいなかったのだ。  羅旋も、躍りこんだ月芽の脚が地につく前に、その場の状況を見抜いていた。愕然《がくぜん》とした思いと、やはりという感慨が、瞬時のうちに胸の中を交錯《こうさく》した。が、それも一瞬のことだ。  この時、羅旋は右手に短槍《たんそう》をたずさえていた。その穂先がわずかな光を反射したかと思うと、無影に剣をむける男たちのひとりの胸に、吸いこまれるように飛んだのだ。  悲鳴もあげずに男が戦車からころげ落ちる間に、羅旋は鞍《くら》につけた鞘《さや》から剣を引抜いている。戦車がすぐには動けないでいるうちに、その間を月芽ですりぬける。水平にふりまわした剣が、戦車上の男たちの身体を薙《な》ぎはらっていった。男たちは、突然の事態がのみこめず、ただただ狼狽するばかりだ。  むろん無影も黙って見ているはずがない。茫然とする陪乗の兵を叱咤《しった》し、戦車を急発進させた。無影が手の中の戈を一旋させると、鈍い悲鳴とともに叛兵のひとりが、車から転げ落ちる。そこへどっと親衛兵らが飛びかかり、首級をあげる——。 「に、逃げろ!」  と、誰かが叫んだのは、賢明な判断だった。敵味方のはずのふたりの、すさまじい闘気《とうき》と息のぴたりと合った連係には、つけいる隙はまったくなかった。ただ、わずかな脱出口を、羅旋がわざと作ったのを、めざとい者がみつけたのだ。  実際、羅旋は、背を向けて逃げだした男たちを追わなかった。そして、無影もその声を聞くと同時に、戈の先を羅旋の方向へと向けたのだった。  雨のしずくが、それぞれの兜《かぶと》も肩も黒く濡らしていた。いや、一部は返り血だったのかもしれない。両者の視線が、真正面からぶつかった。 「成り上がったものだな、赫羅旋。そなたが〈琅〉王か」 「そういうことは、いわない方がいい」  吐き捨てるような無影に対して、羅旋は低く落ち着いた声で応えた。天はますます暗くなり、どこかから低い地鳴りのような音が聞こえてくる。と、思う間もなく、閃光《せんこう》が一瞬、その場を照らした。 「他人を罵《ののし》れば罵るほど、いった方がみじめになるだけだ」  羅旋の回答は、面倒そうに聞こえた。  別に、相手をあなどる気はなかったが、無影にはそう聞こえたのかもしれない。無影の端正な顔に、かっと血がのぼった。左頬にひとすじ、白い傷痕が浮かび上がるのを、羅旋は醒めた気持ちで見つめていた。  すべての事の起こりは、この傷から始まったのだ。  そんな感慨が胸にふと、落ちてきたのだ。  無影には、そんなことはわからない。羅旋の翠《みとり》色の眼に宿った感情を、哀れみととった。彼の頭に、さらに血がのぼった。  戦車の御者の手の上に手を重ね、手綱を激しくあやつると、無影は右手の戈を頭上にふりかざした。その容姿に不似合いな、うなり声がその喉からほとばしった。 「よくも——!」 [#挿絵(img/08_175.png)入る]  低くかったが、羅旋の耳には絶叫のように聞こえた。羅旋の馬の横腹にめがけて、戦車はまっしぐらに駆けこんでくる。それを避けるのは容易だったが、羅旋はしばらく、じっと無影の顔だけ見つめていた。  よそ目には、惚《ほう》けたように見えたのかもしれない。 「もらった!」  勝ち誇った声が響いたとたん、羅旋の右手が動いた。  馬がどう移動したのか、右手がどう動いたのか、無影にはほとんど感知できなかった。なめらかに、すべるように動いた羅旋と黒馬は、気がつけば無影の戦車の横腹につけていた。羅旋の右手の剣が、すれちがいざま優雅な弧《こ》を描いてふりかざされた。あっと無影が思った瞬間、火花が散った。  無影の戈の柄《え》が、ばさりと切り落とされた。暗い空に電光が走った。 「陛下——!」  陪乗の兵が、絶叫する。それにかぶさるように、 「反転せよ、ただちにだ!」  喉が裂けるかと思うような怒声が、雷鳴をしのいで響いた。その時にはもう、羅旋は馬首をめぐらして、向き直っていた。ただし、背後から攻撃をかけるような真似はせず、無影の戦車が小さな半円を描いて向きを変えるのを待っていた。  今度も、先につっかけたのは無影の方だった。断ち切られた戈を投げ捨て、鉄剣を引き抜く。羅旋は戦車を至近距離にひきつけてから、おもむろに、戦車の脇に馬を寄せ、わざと無影の剣めがけて剣をふりおろした。  ふたたび、電光が走る。  間髪をおかず、すさまじい雷鳴がとどろきわたった。どこかに落雷したのかもしれない。つんと、青くさい匂いが周囲に充満したのを、両者はそれぞれ、無意識のうちに感じ取っていた。  位置は、羅旋の方が高い。また、不利になればついと離れ隙とみれば寄せる、たくみな馬の操縦に、無影はぎりぎりと歯噛みした。  一合、二合——。  そのまま、続いていれば、やがて無影の方が力尽きただろう。彼を救ったのは、横合いから突然、つっかけてきた戦車だった。 「陛下——!」  百子遂の声だった。  声が聞こえた時には、すでに無影の戦車の横腹にかするほどの近さにある。羅旋がすばやく手綱《たづな》をさばかなかったら、黒馬の月芽の腹に大きな傷ができていただろう。  羅旋が手綱を突然引いたもので、月芽は竿立ちになった。ほとんど垂直になった馬の腹を両脚でしっかりとはさみ、身体を安定させたのみならず、どう操ったものか、大きく方向を変えさせて、百子遂の戦車を楽々と避けた。  月芽の前足が地に着くのと、だっと駆けだすのが同時である。百子遂の背後に、さらに何台かの戦車と戦意を保った歩卒が続くのを、彼は一瞬のうちに見てとったのだ。  羅旋は、わざと先行してきたために、いまだに一騎のみ。あとに続くはずの騎馬兵の到着が、羅旋の思惑を大きく裏切って遅れていた。多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》を知った羅旋は、それ以上、その戦場に執着しようとはしなかった。  軽く舌打ちをしたのを、百子遂が聞いたような気がしたが、その次の瞬間には、疾風《はやて》のように南へ向かって走りだした。 「陛下——、お怪我はございませんか」  百子遂の顔色は、無影よりも青かった。 「裏切り者どもが偽の報告をよこしたために、手間取っておりました。申しわけございません。お怪我は——」 「ない」  無影は、荒い息づかいで短く答えた。 「偽の報告とは?」 「——伯父が〈鄒〉を放棄して、逃げて参ったと。それで」 「おそらく、百来は生きて戻ってはくるまい——」  口の中でつぶやいたことばは、幸か不幸か子遂には聞こえなかったようだ。 「それより陛下、ご命令を。謀叛人どもの数が、思ったよりも多く、戦線が混乱しております」 「裏切った者の数は、ざっとどれほどだ」 「それが——」  数は、百子遂も把握しきれていなかった。ただ、この時点で軍の左右翼の中から、脱落者が出はじめていたのだ。  理由はやはり、騎兵の、思った以上の速度と機動性である。大牙と左車、それぞれに率いられた騎馬軍が、並み以上に勇猛で、それに恐れを為したこともある。ことに左車の戎兵たちは、その異相と装備の違いが、より強悍《きょうかん》に見せていた。さらに、無影への不信感が彼らの戦意を喪失させていた。  それでも、彼らは彼らなりによく戦ったのだ。いまさら〈琅〉に降伏したところで、生命はともかく、今まで手にしてきた財産や身分、権益が守られる保証はなにひとつない。無影に不満をもっていないわけではないが、さりとてなかば戎族の〈琅〉に寝返るだけの決断力のない者も多かったのだ。  彼らの意気を完全にうちくだいたのは、〈琅〉軍の本営の両翼《りょうよく》に仕掛けられた罠だった。  といっても、単純なものである。 〈衛〉軍の右翼は、大牙がひきいる二千の騎兵の攻撃を一旦は受けたものの、一部が馬たちの間をすりぬけた。数台ではあったが、淑夜の守る本営近くにまで迫ったのだが——。  本営が視認できる距離に、一定の距離をあけて旗が何本か立てられていた。風の向きを調べたり友軍へ合図をしたりするのに、旗を用いることはままあることで、それを本営近くに立てるのも珍しいことではない。そのわりに、その周囲には警護の兵もなく、不自然ではあったのだが、乱戦の中で頭に血が上っている者たちにそんな冷静な観察力はない。  全速力で駆けぬけようとした時、 「わっ——」  突然、車を引く馬たちがいっせいに竿だちになり、甲士たちが放り出された。十数人が、地面にたたきつけられて重傷を負い、中の数人が即死した。生き残った者たち、駆けよった歩卒たちも、足にするどい痛みを感じて、そこここで倒れこんだ。  そこへ、本営の周囲を守る弓兵が、雨のように矢を射こむ。  地面に倒れ伏した〈衛〉兵のひとりが、 「なに——?」  草の根元に、妙なものをみつけて目を剥《む》いた。  菱《ひし》の実だった。  堅い殻を持った、水草の実である。四方に角をとがらせたそれは、泥の上に落ちても、かならず一方の角を上に向けるようになっている。それを踏んだ者は、下手をすれば足の裏を踏み抜くことになる。  だが、本来この実は、水中に落ちるものだ。だれかが集めてばらまかなければ、こんな乾いた地面にあるはずがない——。  実はこれは、戦の日取りが決まるまでの間に、淑夜が近くの湖の底から採らせたものだった。菱の実は、食用になる。水面を被う菱の枯れ葉を見て、糧食の足しにでもなればと採らせていて、思いついたのだ。  縄ほど大がかりでなく、また目立たず、その上、効果的で、しかも排除しにくい。欠点は敵味方の区別ができないということだが、菱の実を撒《ま》く場所を限定し旗を立てて、味方には足を踏み入れないように通知した。仕掛けは、それで十分だった。 「罠だ!」 〈衛〉兵のだれかが叫んだ。 「罠だ。退け!」  それがきっかけだった。  彼らにとって、大義や忠誠を守ることも大切だが、自分の財産——馬や歩卒、武器の類まで含めて、損害を最小限にくいとめることも大切だったのだ。  彼らは本営で無影に向けられた刃のことは何も知らなかったが、機《き》を一《いつ》にして、混乱に紛れて戦線を離脱していったのだ。  ——子遂は、ある程度の軍の動きを把握していた。 「わが軍が不利です。このままでは——。できれば、いったん退却して体勢を立て直したほうが、得策かと思います」  消極的な策ではあったが、子遂は正直に告げた。無影が恐ろしくなかったわけではないが、こんな時、百来ならなんというだろうかと考え、勇気を懸命にふるいおこしたのだった。  無影は、怒らなかった。  雨のしずくで濡れた顔で、しばらく子遂の顔をじっと見ていた。  その頬を、ふい、と風が吹きすぎていく。 「風が——変わった」  落雷の直後、いったん熄《や》んでいた風が、ふたたび吹きはじめた。ただし、それは今までとはまったく正反対の、南風だった。  勝機が、両手の中からこぼれ落ちたことを無影は自覚した。 「わかった。退こう」  静かに告げた。  子遂は、無影の気が変わらないうちにと、合図をした。退却の金声が戦場に響きわたった時、その音に反応する〈衛〉軍は、払暁の半分以下に減っていた。それがわかったのは、もっと後のことだったが——。 「陛下——これからどこへ」  指示を仰ぐ子遂の眼に、無影はとまどった。どこへ——どこへ行くべきなのだろう。本来なら、この夢沢に近い城市に本拠を置くべきだった。兵力は多く置く必要はないが、何かあった場合にはとりあえずそこに入って休息し、組織をととのえ軍勢を組みたてなおすだけの、備蓄と受け入れ態勢を確保しておくべきだった。だが、無影はそれをしなかった。淑夜の仕掛けてきた策に、乗るまいとしたためだったのだが、 (躬《み》は——及ばなかったのか)  深い嘆息が、無影の全身からこぼれ落ちるのを、子遂はいたたまれない思いで見つめていた。 「陛下——」 「瀘丘へ」  それは、事実上の敗北宣言だった。ほかの城市を確保していない状況で、瀘丘にはいったところで何もならない。休息は取れるだろうが、〈鄒〉が完全に〈征〉と〈琅〉の連合軍を殲滅してしまわないかぎり、他から援軍が来る予定もない。孤立した瀘丘では、包囲されてしまえば勝ち目はない。しかも、瀘丘は遠い。  それでも、無影の戻るところは瀘丘しかなかった。 「瀘丘へ。躬は、まだあそこでやるべきことがある」  鉦《かね》の音が聞こえたのは、羅旋がふたたび乱戦の中に身を置いた時である。 「風が変わった」  それも、だれよりも早く気づいた。  次の瞬間、 「しまった、無影が逃げる」  軽い舌打ちが、羅旋の口からこぼれ出た。黒馬の首が北へ向かってめぐらされるのを横合いから止めたのは、小参である。 「陛下、どちらへ!」  いったん、見失っていた羅旋の姿を乱戦の中から見いだした時、この少年は泣かんばかりに羅旋の名を呼んだ。  行く先を訊かれて、羅旋は、 「——無影を討ちもらした」  と答えただけだったのだが、その場にいた全員が顔を青くした。仮にも一国の王が、単騎で敵の本営に切りこんで、敵の王と一騎討ちを演じたのだ。万が一の事態を想定しただけで、血が引いたのも無理はない。 「何も、心配することじゃない。俺が無影を倒せば、そこでこの戦は終わる。双方ともに損害は、最小限ですむんだぞ」  自分が倒されるという想定はしないのかと、周囲の者たちは思わず頭をかかえるところだった。この場に段大牙か徐夫余がいれば、なんということをいう、王としての自覚がないのかと詰め寄るところだが、さすがに遠慮もあったし、矢が飛び交う戦場で長話もできず、そのままになったのだ。 〈衛〉が退却を始めたからといって、戦闘がまったく終わったわけではない。まして、二度も単騎で敵陣へ突入されては、配下としては面目がたたない。小参が、手綱を握る羅旋の手にかじりついたのも、無理のないことだった。 「離せ! 小参」 「離しません。戦は、今だけではありません。無駄な殺生《せっしょう》はしないでください。こんな場合、降伏する者は受け入れ、逃げる者は逃がしてやるよう、私は淑夜さまからおおせつかっています」 「——また、淑夜の奴か」  今度の羅旋の舌打ちは、しょうがないなといった苦笑だった。  それを敏感に感じ取った小参は、さらに手に力をこめる。 「どうか、鉦のご命令を。本営の淑夜さまへの伝言は、私が持っていきます。陛下はどうか、自重してください」 「と、いうように淑夜にいわれたんだな」 「そのとおりです。耿無影が退却するとしたら、行く先は瀘丘しかない。決着は、瀘丘でゆっくりつけてもいいことだと、おっしゃいました」 「そうか——」  手綱を握る羅旋の手が、嘆息とともに緩められるのがわかった。 「わかった。謀士どののいうとおりにしよう。段大牙と左車にも軍令を出せ。早急に兵を集め、損害の割合を調べろとな」 「はい!」 「それから、まず怪我人の収容をいそげ。敵味方、問わずだぞ。進んで降伏する者は、武器をとりあげるだけでいい。逃げる奴は、追うな」 「わかりました」 「それが一段落したら、どこか平らな場所に大きな穴を掘れ。遺骸はまとめて、葬《ほうむ》ってやろう——」  双方ともに、戦死者は意外に少なかった。〈琅〉軍の速度には矢が及ばなかったことと、〈衛〉軍の一部が早々に浮き足立って逃げてしまったためだった。  こんな場合、〈琅〉は騎兵も歩卒もない。損害が少なく余裕のある隊が、戦場の後始末にかかる。もともと、十人を戦闘の一単位として、彼らは行動している。それでその単位ごとに点呼をとって無事を確認し、怪我人の少ない単位ごとに、すぐに武器の回収と人の埋葬へと送り出された。  中に、黒焦げとなって顔形も判別できない遺骸を見つけたのは、今回、〈琅〉の本営の守備についていたためにほとんど損害のなかった徐夫余の一隊だった。 「戦で死んだわけではないな」  異様に小柄なその身体は、屈強な兵士のものではなかった。不審な遺体ということで、五叟老人に検死を頼んだところ、 「これは——」 「先生——?」  傲岸不遜《ごうがんふそん》な老人が息を呑んで、粛然《しゅくぜん》とするところを、徐夫余ははじめて見た。 「——これは、冉神通じゃ」 「というと、あの——」 「儂の、宿怨《しゅくえん》重なる兄弟子じゃよ」  と、うなずいて、 「北風を呼んだのは、こやつにちがいない。天然の霧を、儂の仕業と誤解して、儂と〈琅〉軍を窮地《きゅうち》に陥れようとしゃしゃり出てきたのじゃろうが——これは雷に打たれて焼けたのじゃな。北の方でさかんに電光が走っていたであろう。そのひとつに直撃されたのであろう」 「——術に失敗したんでしょうか。このようすだと?」 「いやいや、成功しすぎたのであろうよ。天地の精気を身のうちにとりこんで、操っていたのだが、人の器には限界がある。精気が人の身体を食い破ったか——それとも人の傲慢《ごうまん》に、天が罰を下したのかもしれん」 「傲慢、ですか」  徐夫余のようにおとなしい人間にとっては、五叟老人も十分に傲慢だ。さすがに憮然とした徐夫余の顔を見て、五叟老人はにやりと笑って、 「そうじゃ、傲慢じゃ。儂は、だれにでも利用できる術を考えてきたであろう。なるべく超常の力には頼らぬ方がいい、ちょいと利用するぐらいならまだしも、それですべてが解決できると思うのは、人の傲慢じゃ。人ひとりの力とは、本来、弱いもの。人の歩みとは遅いものじゃ。でなければ、無影やこの冉神通のように飛び抜けた力を持った奴が、人の世のすべてを支配してしまう。儂やおぬしや、ふつうの人間は、どこまでいってもふみつけにされる側でしかないが——そうはならないからこそ、世の中というのは公平ではないのかの——と、これはとんだ説教だった」  徐夫余の困惑顔に気づいて、老人は笑いながら手をふり、長広舌を止めた。 「ま、どちらにしても、耿無影はこやつの術を利用しきれなんだわけじゃ。天に見放されたとは、こういうことかの」      (二) 「〈鄒〉は陥ちましたぞ」  数日後に夢沢の野に到着した羊角は、天幕に入って羅旋の顔を見るなり、そう報告した。 「そうか——陥ちたか」  天幕の上座に座る羅旋が、感慨深げにつぶやいた。その真正面にもうけられた座に、羊角はどかりと座り、ていねいに一礼すると、 「惜しい漢を亡くしました」 「百来将軍か。やはり、助けられなかったか」 「なにしろ、機会が少なかった。百来どのは籠城《ろうじょう》せずに、〈鄒〉の城の前に軍勢を展開してきたもので、正面衝突するしかなかった。一万二千と聞いていたが、あれは、相当脱走していたのではないか。こちらも、〈征〉の禽不理どのが、三千ばかりをかき集めてくれましたしな。百来どのは結局、戦車の上で壮絶な戦死を遂げた。覚悟は、とうの昔につけていたものと見えた」  羅旋が、瞑目《めいもく》した。残念そうな表情は、芝居などではない。それを確認して、羊角はさらにことばを続けた。 「守城の方は、儂の独断で廉亜武《れんあぶ》将軍に交替してもらった。巨鹿関《ころくかん》の方は、あの状態なら入ろうという奴はおるまい。廉将軍の顔を見てから、急いで馳せつけたのじゃが——終わってしまいましたな」 「まだ、耿無影を倒したわけではない。ご老体に働いてもらう場所は、いくらでもある」 「いやいや、今度のことで思い知った。若い者の発想と気迫に、儂らのような年寄りが及ぶものではない。戦があるにしても、儂は補佐に回らせてもらう。もしもよければ、このまま軍を返して、新都を改めて占拠してもよいが——」  そこで、白い眉の下からさぐるように羅旋を見た。羅旋は大きく笑って、 「力ずくで居すわれば、〈征〉が黙ってはいるまい。戦になって、華々しい活躍をするのは羊角どのだが——正直、〈琅〉としては、〈征〉と全面衝突をするのは、今のところ避けておきたい」 「というと、新都はこのまま、そっくり〈征〉に返してやろうというのか?」  それまで多少なりとも遠慮がちだった羊角の口調が、荒っぽくなった。だが、羅旋はとがめることはせず、 「いや、せっかく将軍が苦労して手に入れてくれたのだ。むざむざ返す気はないが、そこは力ずくではなく、交渉でなんとかしたい。この件が——無影との決着がすべてついたら、淑夜が何か考えつくだろう。それまでは、ほうっておいていいさ」 〈征〉の方にも、自力で奪回できなかったという弱味がある。とりあえず、守備のための兵は入れているが、羊角もぬかりなく廉亜武を新都に置いてきた。今のところ、新都は〈征〉と〈琅〉の共同所有という形になっている。それを、〈征〉のものだと強行に主張すれば、〈琅〉の怒りをかうことぐらい、わからないはずがない。新都奪回に、すぐに兵を出せなかった〈征〉が、〈琅〉と正面衝突して勝てる可能性は低い。もっとも、今回、かなり無理をした〈琅〉の方も、ほぼ戦力は限界にきているのだが——。  そのあたりの微妙な均衡は、羊角にも理解できた。羅旋のことばにうなずきながら、 「それで——瀘丘へはいつ、出発をなさる」  彼の方から、話を先へ進めた。 「こんなところで、のんびりとしていてよいのか。瀘丘も、なかなか攻めるのには苦労する城だと聞いているが」 「だからこそ、出発が遅れている」 「というと?」 「今、周辺の城を、改めて接収しなおしている」  いったん、大牙の交渉で〈衛〉側に返還された八城にくわえて、さらにその周辺の邑などに人を派遣して、戦の趨勢《すうせい》と今後の〈琅〉の支配とを宣布させているのだ。城民たちにしてみれば、頭の上で勝手に所属のやりとりをされているのだ、不平不満は双方に対してある。〈琅〉が、最低限の量だけ残して、食料を持ち去ったのも、悪い方向に作用していたという。だが、いったんとりかえしたはずの無影も、一兵も送りこんでこなかったということで、彼らは〈衛〉を見放した。 「民を守ってくれない王など、王の資格はない」  というのだ。それを聞いて、羅旋はすぐに兵の一部に糧食を持たせて、各城や邑へと向かわせた。慎重に計算した上で、必要以上の量は民に返還するよう命じたのだ。これが、徐々に効果を上げてきており、あらかたの城が〈琅〉王・赫羅旋の支持に傾きかけているという。 「民が王を選ぶのか。どうも、逆のような気もするが」  と、首をひねった羊角に、 「いや、これでいい。王は民と国土を守るためにあるはずで、搾取《さくしゅ》する王なら必要はないわけだ。耿無影が〈衛〉の民の信頼を失くしたとすれば、あわてる必要はないさ。瀘丘への援軍はどこからも出ない。瀘丘から逃げ出す者はいるだろうがな。逃げ出せるようなら、できるだけ大勢が瀘丘を離れてから、戦を仕掛けた方がいい」 「なるほど。それは、謀士どのの考えかな」 「ご明察だ」  羊角の鋭い視線の前で、羅旋はなんのてらいもなく笑った。その表情をたしかめるように見てから、羊角はほっと肩で息をした。 「そなたが、王になって舞い上がっているようであれば、戦の最中であろうがなんであろうが、討つつもりじゃった」  ぼそりとつぶやいたが、羅旋は顔色も変えなかった。 「舞い上がる? この状況で、どうやって。俺は責任を押しつけられた自覚はあるが、人の上にふんぞりかえる気はないぞ」 「そうじゃな。段大牙も耿淑夜も、ふんぞりかえらせてはくれぬようだ。儂も、これで安心した」 「——羊角どの?」 「先王との約束じゃ。この一件が片づいたら、いったんは退位してもらおう。だが、〈琅〉王はそなたより他にない」 「おい、羊将軍——」  困惑の表情をうかべた羅旋を見て、羊角は白い髯を揺らして笑いだした。 「辞退しても、無駄だぞ。藺季子《りんきし》どのがどう出てくるにせよ、そなたは〈琅〉の五相のうちの四人を味方につけたのじゃ」 「俺は、俺の味方ではないぞ」 「それでも、三人。反対しても、無駄じゃな。しかも、そなた、自分で自分に叛旗《はんき》はひるがえせまい」  気持ちよさそうに笑う羊角の声につられたように、 「失礼します」  天幕の中へ、淑夜が入ってきた。 「おお、謀士どの、このたびはご苦労じゃったな。それで、玉公主はお元気か」 「ご無事です。公主も是非、羊将軍のお元気な顔が見たいといっています。この後、ご案内します」 「そのことだが——よろしく頼む、淑夜どの」  改まった口調に、しかし淑夜は動じる気配もなく、 「なにを、頼まれたんでしょう。羊将軍に頭を下げさせるようなことを、私はしていませんが」  おっとりと笑いながら応じた。 「まず、揺珠さまの件だ」  と、羊角もはっきりと告げた。 「揺珠さまには、もうこれといって近しい親族もおられぬ。頼りになるのは、淑夜どのだけじゃ。これまで、か弱い婦人の身で、〈琅〉のために耐えてこられた方だけに、是が非でも幸福になってもらいたい。もしも、揺珠どのが苦しむようなことになれば、まず儂がそなたを討ちに行くぞ」 「それは、いわれるまでもありません」  淑夜も、照れることもはぐらかすこともしなかった。 「最初からそのつもりでなければ、気持ちを申し上げたりはしませんでした。よく考えた上のことです。ご心配なく」 「もうひとつは、この羅旋のことじゃ」 「おい、羊将軍——」 「儂は老い先短い身じゃ。今回がおそらく、最後の戦になるだろう。そういう意味で、花道を飾らせてもろうた。だが、戦がすべて終わったわけではない。〈征〉は今は幼主だし国力も落ちているからおとなしくしておるが、穏健《おんけん》な禽不理《きんふり》将軍が世を去れば、国論がどう動くかはわかったものではない。その時に、この羅旋を王として支えるのは、淑夜どの、そなたと段大牙どのだ」 「はい」 「戦だけではない。国の運営も、すべて、そなたら若い者がこれから、先頭にたっていかねばならん。先は長い、障害も多かろう。なにより、この漢は人の上にふんぞりかえって命令するのに、慣れておらぬ」  淑夜は苦笑で、羅旋は憮然とした表情で、それぞれうなずいた。自覚は羅旋にも淑夜にもあるのだ。羅旋は、人の上に立つのが不得手なわけではない。ただ、自分は何もせず、他人に命令するだけというのが苦手なだけだ。だが、王というものは、それができなければならないのだ。  任せるところは他人に任せきり、大局だけをつかんでおくのが、王たる者の役目の第一だ。むろん、任せるためにはそれなりの人材が必要で、それを見抜き、集め、適したところに配置するのも仕事のうちだ。  何もかもひとりの手でやってしまうのは、効率的なようでいて、実はその下に人材が集まってこないし、育たない。そのいい例が、〈征〉の魚支吾であり、〈衛〉の耿無影だった。  それに、王が有能なのはよいとして、ひとりの人間が永遠に生きるわけではない。永遠は無理としても、何年かの間、国をとどこおりなく動かしていこうと思えば、その役割を分散し、だれかが欠けてもすぐに代替がきくように、組織を組み上げなければならない。それは、王という役割であっても同様だ。  極論すれば、王などはその組織の上にまつりあげられて、決済の玉璽《ぎょくじ》を押すだけの存在でもかまわないのだ。ただ、臣下の者たちの意見に、真摯《しんし》に耳をかたむけることができれば、それで十分なのではないか。  淑夜は、そう考えている。それを見抜くように、 「そなたのことだ、この先の〈琅〉の形も、とっくに考えているのじゃろう。いろいろとたいへんであろうが——なんとかこの漢を王として、補佐していってほしい」  羊角は、告げた。 「大牙どのも私も、羅旋の——陛下の麾下にはいった時から、そのつもりでした。王というのはともかく、将として相として、羅旋を支えていくつもりでしたし、羅旋を通じて〈琅〉の国を新たに作っていくつもりでした。それは、今も変わりません」 「よろしく、頼む」  白い頭を深く下げられて、淑夜も端正な礼を返した。  その中間で、羅旋が居心地悪そうな顔であらぬ方を見ていたが、 「そうだ、淑夜、何の用だ。わざわざ、ここまで来るからには、なにか急な用事があったんだろうが」 「——戦場の始末が、一段落つきました。羊将軍の軍が休息をとり次第、瀘丘に向けて出発したいと思います。ご許可を」 「休息など、必要ないわい。今すぐにでも、出発しよう。ものには機というものがある。〈琅〉に有利なこの時に、すべてを決してしまわねばな」 「——商癸父を呼べ」  瀘丘にはいってすぐに、無影は側近の者にそう告げた。 「商癸父は……ただいま、病気で」 「病《やまい》の人間が、瀘丘の守将として、士大夫たちの財産をとりあげ、管轄《かんかつ》していたと申すのか」 「それは——病気になる前の話で」 「ならば、病に倒れた時点で、他の者になぜ交替しなかった」 「それは、それほどの病状ではなかったからで……」 「ならば、なぜ、たった今、出迎えに現れなかった。それとも、戦に敗れて帰ってきた王など、出迎えなくともよいという気か」 「いえ、そんな、めっそうもない」  脚下で、額を床にすりつけて応対するこの男も、商癸父と同じく、無影が学舎に集めた人材だ——いや、人材だと思った人間だった。  門地家柄に因《よ》らず出てきた彼らは、たしかに頭はよかった。だが、士大夫たちの圧力と反感に対抗する手段として、学舎出身同士、党派を組んだ。ある程度は、必要な手段だったのかもしれない。ことに、国政にかかわる部分で、士大夫層の妨害を排除するためには、彼らは手を組み、緊密に連絡を取り合い、時にはかばいあうことも必要だった。  だが、あきらかに失策《しっさく》を犯した商癸父を、かばうのは行き過ぎだ。しかも、国の存亡の瀬戸際にある今、商癸父の罪を隠したとしても、どうなるものでもないはずだ。すぐに、〈琅〉軍がここにおしよせる。瀘丘が陥ちたら、無影はもちろんのこと、瀘丘を預かっていた商癸父も、ただですむはずがないのだ。 (それとも、躬が死ぬのを待って、〈琅〉に鞍替《くらが》えする気か)  無影は、腹の底で冷たく考えた。 (いや、待つような男ではない。隙を見て、瀘丘を逃げ出すか、それとも躬を売って、〈琅〉に恩をきせて生き延びようという魂胆か)  鋭い視線を向けられて、男は震えあがった。血の気の失せた顔色を見て、無影は自分の想像が一歩、確信に近づくのを感じた。 「病中でもよい。商癸父をひきずってまいれ。いや、今さら、躬の前へなど、顔を出さずともよい。王宮の地下牢に放りこんでおけ。後で見にいく」  命令だけして、無影は身をひるがえした。温涼車が王宮の門をくぐるところだった。  香雲台《こううんだい》は、荒れ果てていた。残していた侍女たちのうち、ある者は親元へ逃げ、ある者はさらに瀘丘を脱出していったからだ。さらに、商癸父が管理のためと称して、兵を入れた。厳しく統制はしていたようだが、やはり女のような細やかな心配りはできない。外の回廊には泥がたまり、院子《にわ》には枯葉がうずたかく積もっていた。池も泥でなかば埋もれかけていた。  その中から、 「お帰りなさいまし」  あらわれた婦人に、正直、無影は驚いた。表面は何事もないようにつくろったが、 「尤《ゆう》夫人——そなた、逃げなかったのか」 「あたくしは、閉じこめられていましたのよ、財産を差し押さえられて。どうやって、逃げよとおっしゃいますの。それとも、金品をここに置いて、どこぞへ雲隠れしていた方が、よろしかったでしょうか? そうすれば、尤家の財産はすべて陛下のものになりますものね」  皮肉たっぷりにいいながら、しかし暁華の表情はおだやかだった。遠い敗走の道程を、耐えぬいた|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫の細い肩を、無影の手から奪うように支えて、奥部屋へと導いた。  外は汚れ放題だが、奥の数間だけはきちんと清掃が行き届き、調度なども連姫がここを後にしたまま、そっくり保管されていた。 「尤夫人——」  車から降りた時、なかば気を失いかけていた連姫が、薄く目を開いた。 「何も心配することはございません。あたくしがお側についておりますから、どうぞご安心を」  はきはきとした暁華の声にうなずき、連姫は暁華の手を握りしめた。まるで、妹が姉を頼るような仕草だった。その間、無影は茫然とふたりの女を見つめるばかりで、手も口も出そうとしなかった。  暁華はどう調達したのか、薬湯まであらかじめ準備していた。それを、手際よく連姫に呑ませ、薬効で彼女が眠りに就くまで、じっと手を握ったまま、かたわらについていたのだった。  軽い寝息が聞こえはじめても、なおもしばらくの間、暁華はそのままの姿勢でいたが、 「お目醒めになったら、もう一服、薬湯をさしあげてください。身体より、心が疲れきっておられます。しばらくは安静に、休ませてさしあげるのが一番です」  戦場を、影のように従ってきた班姑《はんこ》に指示をしてから、 「さて、陛下には別室でお話がございます」  うってかわって、きりりとまなじりを上げて向き直った。その視線を、無影ははじめて避けるようにうつむいた。 「財産のことならば、すぐに返還する。商癸父は、処罰するよう命じておいた」 「いいわけはなさいますな。また、いまさら、処罰などなさってどうなります。こんなことになるぐらいなら、最初から戦など起こさなければよろしかったのです」 「そなたには、わからぬ」 「ええ、わかりません。商家の女あるじごときには、わからぬことだらけでございます。それほど大事だとお思いなら、なぜ、そのお気持ちをはっきり口になさいません」 「いまさら、何を——」 「こちらの件は、いまさらだからこそ、申しあげているのですわ。このまま、この世の終わりまで、黙っておいでのつもりですか。おまえが、この世のなによりも大切なのだと、なぜ、仰せになりません。人は、ことばにしていっていただかなければ、わかりません。まして女は、殿方の気持ちなどわかりません。たったひとことで、救われるのですよ。陛下、陛下はお気づきになってらっしゃいますか。淑夜さまの件にしても、今回の商癸父さまにしても、すべて陛下がことばを惜しまれたために、ひき起こされたのですよ」  もともと、口のたつ女だ。それに真剣な顔で論じたてられて、無影は返事をすることも忘れた。 「陛下が、ほんとうは何を望んでおられたのか、それをきちんと話しさえすれば、商癸父どのもこんな無謀はなさらなかったでしょう。あの方は、陛下の意をむかえよう、陛下の望みの先回りをして喜ばれようとして、今日の事態を招いてしまわれたのですよ。陛下が、それはするな、これはせよと、はっきりと命じておいでになっていれば、士大夫の反感も半分になっていたでしょう」 「いわねば、わからぬというのか。一国の国政を預かる人間が——いや、大の男が!」  無影にも言い分はある。商癸父は、けっして頭の悪い男ではない。また、私利私欲も、それまでの士大夫たちの行状に比べれば、はるかに少ない。無影に事後を任せられた時、荷が勝ちすぎるのなら、そう申し出るべきだった。そうすれば、無影も彼ひとりに全責任を負わせるようなことはしなかったろう。  だが、 「自分が無能だと、自分の口からいえる人間が、どれほどいるとお思いですか」  暁華は容赦なかった。 「人とは思い上がりやすいものです。期待されれば、それに応えようとするものですわ。陛下のように万能な人間には、それがなかなかおわかりにならないのでしょうけれど」  ——私など、たいした才もありません。  無影の胸に、不意に響いた声があった。頼りなさそうな笑顔とともにいったのは、淑夜だった。あれは、淑夜が十五の春、義京へ出発する直前のことだ。  遊学を勧めたのは、無影の方だ。淑夜に才能があると認め、それを生かしてやりたいと本心から願っていた。なぜ、あの時の気持ちのままでいられなかったのだろう。たとえ、自分が変わってしまっても、淑夜の本質が変わるはずはなかったのに。  もしも、淑夜に斬りつけられた直後、あんな風に五城の報奨を出して天下に公布していなければ——ひそかに人を遣《や》って、頭が冷えた状態で話しあっていれば、自分の窮状を素直に訴えていれば、淑夜は帰ってきていたかもしれない。当時、淑夜はこの暁華の家にかくまわれていたのだ。連絡をつける伝手《つて》はあったし、暁華ならうまく仲介してくれただろう。  淑夜を〈奎〉に、そして〈琅〉へ追いやったのは、だれでもない、無影自身なのだ。  無言のまま、粛然となった無影の表情の変化を、暁華も見逃してはいなかった。これまで彼女が何をいっても、なかば冷笑するような横顔で聞き流していた無影が、はじめてそんな顔をみせたのだ。自分のことばが、ようやく無影の胸に届きはじめたことを、彼女は知った。 (遅すぎた。でも、最後まで無視されるよりはましかもしれない)  暁華はくちびるを噛みしめながら、 「陛下——いえ、無影さま」  低い声で、つぶやいた。 「ひとつだけ、申しあげておきたい、いえお目にかけたいものがございます」  なんだ? という目を上げる無影にむかって、 「これでございます」  暁華は、袖《そで》の中から、一巻の巻子を取り出した。 「以前、納入しました書籍の中にまぎれこませておきましたのに、まったくお気づきになりませんでしたのね。他の書籍とともに、書庫の隅で埃《ほこり》をかぶっておりました」  受け取って広げて、無影は低くうなった。 「これは、淑夜の——」 「膨大な量の書籍を記憶して、それを再現する合間に、あの方はこんなものを書いておられましたの。いえ、これはあたくしに宛てて淑夜さまが書かれたもの。金主に対して、金銭の使い道を説明するためのものに近いでしょう。でも、おもしろいと思いましたので、さりげなく陛下のお目に入るように仕組んでみたのですけれど——これは、あたくしの失敗でしたわ。あたくしももっと直截《ちょくせつ》に申しあげるべきだったと、悔やんでおりますの」  それは、淑夜が考えた「国の形」だった。〈奎〉で心ならずも強いられた小国連合の形態と、〈琅〉の合議制の欠点と長所を箇条書《かじょうがき》にした上で、基本的には、合議制を支持している内容だった。ただし、合議制は、決定までに時間がかかる。それを、いかにして短縮するかをまず考え、どうせ合議をするなら、庶民の末端にまでその制度を行き渡らせるべきだと論じる。 『——むろん、そのためには庶民であっても、多少の文字を知っている方がいい。国の政はどこか遠い雲の上で行われているのではなく、自分たちも意見を申しのべることができるのだと知らせるためには、文書で公布するのがもっとも効率的で確実だからです。でも、教育には時間と金銭がかかります。食うや食わずの生活をしている者に、鋤《すき》や鍬《くわ》を筆に替えろとはいえません。また、大人たちに文字を教えるのは大事です。子供の時代からすこしずつ教えて、彼らが大人になった時にはじめて、この構想は実を結びかけるのです。おそらく、きちんと成果が出るのは、私たちが世を去った後でしょう。それでも、何かを残していけるのであれば、無駄な仕事ではないと思うのです——』  淑夜の几帳面《きちょうめん》な筆跡が、時に流れ時に乱れているのは、急いで書いたためだろう。それとも、書いている間に感情が熱していったのだろうか。  いつ書いたか、無影は問わなかった。どの国にせよ、淑夜が一国の政に直接関わるようになったのは、つい最近だ。そして、この巻子はそれ以前に、無影の手もとに届いていた。  それは、無影の考えていたことと、それほど大きくへだたっていたわけではなかった。無影は、絶対的な権力を握りはしたが、それを恒久的に自分のものにしておく気はなかったからだ。人材を育て、彼らが国政を執れるようになれば、自分は身を引いてもいいつもりだった。無影と淑夜の違いといえば、 「躬は、急ぎすぎたのか……」 「そうかもしれませんわね」  他にも、人を容れる度量や、惹きつける力など、無影に欠けていた点は多い。暁華もそれは十分に承知していたが、それ以上追い打ちをかけるようなことはしなかった。  暁華のやわらかな相づちに救われたように、無影がしずかに口を開いた。 「……会えるだろうか」  だれに、とはいわなかったが、暁華にはすぐわかった。 「よろしいんですの?」 「いまさら、というのだろう。誤解をするな。いまさら、命乞いなどする気はない。ただ、躬が死んだ後に、どんな国ができることになるのか、それを直に確かめてみたいだけだ」  皮肉っぽくくちびるを歪めたが、不思議なことに、その声は妙に明るかった。 「わかりました」  暁華も、今度はすなおにうなずいた。 「もうすぐ、〈琅〉軍が瀘丘を囲みましょう。でも、わが家の者を使者に出せば、少なくとも、淑夜さまと会う算段はつけられましょう」      (三) 「三年、いえ、四年ぶりになりますか」  先に口を開いたのは、淑夜だった。 「……立派になったものだな」  無影の声にはまだ、皮肉の棘《とげ》がつき立っていたが、淑夜にはもう、痛みも感じない程度のものだった。むしろ、そのおだやかさを哀しいと感じたほどだ。  ただ、淑夜の背後から姿を見せた長身にむけた視線は、以前のとおり、激しい敵意に満ちていた。 「満足か、赫羅旋」  どう答えても、そこから激しい応酬がはじまりかねないことばだったが、 「返答のできない質問は、しないでもらいたい」  羅旋は動じることなく、軽くいなしてしまった。  羅旋も淑夜も巨鹿関を出て以来、ほとんど戦と野営の連続で、さすがにやつれは隠せないが、衣類は比較的こざっぱりと手入れが行き届き、羅旋は鬚《ひげ》もきれいに整えていた。  その端正な姿で、 「はじめてお目にかかる、というべきなのだろうな」  両者が顔を合わせるのはこれで三度目だが、前の二回とも、名のるような状況ではなかった。今回は、羅旋の方から軽く会釈《えしゃく》をして座についた。瀘丘城内の、城門に近い家の一室である。持ち主はこの戦になる前に商売に失敗して逃げたとかで、暁華が差し押さえていたのだ。 「そのかわり、荒れ放題ですけれど」  無影が城外へ出るわけにはいかなかった。それでなくとも、城壁の衛兵の目をかいくぐって瀘丘を脱出しようという住民が、後をたたないのだ。場合によっては、衛兵もろとも逃げることもあるという。無影が城門を出る姿を少しでも見られたら、瀘丘内部は混乱の中に投げこまれるだろう。まして、敵軍の王と面会すると知られれば、無影自身の生命があぶない。  むろん、羅旋が城内にはいることについても、大牙らは反対をしたが、 「俺を殺そうがどうしようが、もう決着はついていることぐらい、無影もわかっているだろう。無駄なことはするまい」  淑夜がうなずいて、同行を承知した。  実際、暁華だけを連れて現れた無影の身に、殺気がないことはすぐに見てとれた。  ちなみに、高い城壁を濠にかこまれた瀘丘からの脱出は、主に尤家の手の者が手助けしていたらしい。出ることができれば、入るのもたやすいというわけだ。 「よくも、煮え湯を飲ませてくれた」  苦い口調で告げてくる無影に、淑夜はかすかに視線を上げ、羅旋は軽く肩をすくめた。彼らにしてみれば、意識をしたことではない。その場その場の状況に合わせて、最善《さいぜん》の方法を選んでいったら、こうなっただけの話だ。それも、かなり危険な綱渡りの連続だった。ひとつ、脚を踏みはずしていれば、無影の今日の姿はそのまま、羅旋のものだったはずだ。もっとも、羅旋ならこんな場合、城に戻るようなことはせず、何もかも放りだして、単身、逃げてしまったかもしれないが。 「いまさら、恨みごとをいう気はない。ただ——」  そこで、無影はめずらしくことばに詰まった。なんといえば、自分の心情を的確に表せるのか、淑夜たちに誤解させずにすむのか、慎重にことばを選んでいるようすだったが、 「ただ、私は後悔していない。それだけを、伝えたかったのだ」  簡潔なことばしか、その口からは出てこなかった。いい終えて、無影は挑むような目をして、羅旋をにらみつけた。文句があるなら、いってみろといいたげな視線だったが、羅旋は微笑でうけとめただけだった。それを、もう一度、はじきかえすようににらんでおいて、 「明日、払暁、一斉に城門を開く。逃げたい者は、その時にすべて放つことにする。その者たちには、危害をくわえないでほしい」  ゆっくりと告げた。間髪をいれず、 「承知した」  羅旋は応えて、さらに、 「こちらからもひとこと、いい置いておくことがある。先日、夢沢で貴殿に刃を向けていた連中が、〈琅〉に投降してきた」  つけくわえた。無影の左頬に、白い創痕《きずあと》がうかびあがった。 「それで——」 「全員、軍法に照らして処刑した」  それを告げた時の羅旋の表情の厳しさには、暁華ですら思わず身をひいたほどだ。  ただ投降してきただけなら、羅旋は基本的に、何もいわずに受け入れる。だが、いったんは主君と仰いだ人間に、土壇場《どたんば》で刃をむけようという連中の性根には、嫌悪しか感じなかったのだ。相手が、目上だからではない。これが平時ならともかく、戦場での裏切り行為は、裏切られた人物以外の者の命運も巻き添えにしてしまうのだ。とうてい許せるものではなかった。  これには、淑夜も反対しなかった。どう考えても、連中の行動は醜悪《しゅうあく》そのもので、かばいようがなかったのだ。 「よく——あの乱戦の中でよく、人の顔が見分けられたものだな」  無影は一瞬、あっけにとられ、それから嘆息まじりにつぶやいた。  羅旋がそれに応じて、 「なに、俺たちは馬の顔を見分けられる。人の顔を判別するのはもっとたやすいさ。それより、処刑はしたが、遺族が望むなら遺体は引き渡す。こんな時だが、遺族が城内にいるなら、訊いてみてほしい」  と、これは暁華にむかって告げた。 「よろしゅうございます」  暁華は、艶《つや》やかな声で承知したが、無影が首を横にふった。 「いや、尤夫人にはこの場から、城外へ出てもらおう。その方が、安全だ」 「陛下! あたくしはまいりませんわよ」  とんでもない、といった調子で声をあげる暁華に、無影はふたたび首をふった。 「財産のことなら、心配は無用だ。すべてが終わったら、そっくり返すように手配してある」 「そんなことではございません。おふたりのことを、そのままにしては——」 「それは、私と連姫との間のことだ。尤夫人にこれ以上、干渉されてはかえって迷惑だ」  口調は冷たかったが、暁華にはそれが無影の思いやりのように聞こえた。淑夜たちにも、そう聞き取れたのだろう。羅旋が、うなずいた。 「おまえのおせっかいも、ほどほどにしておけ。許可が出たなら、気が変わらないうちに、さっさと逃げた方が身のためだぞ。だいたい財産なら、おまえのことだ、あらかじめほかの城市にも分散させてあるんだろう。いまさら、物惜しみするんじゃない」 「ま、ごあいさつですわね」  暁華は柳眉《りゅうび》を逆立てたが、それ以上、反論はしなかった。 「では、行け」  明日の朝、城門を開くといった。城門はひとつではないが、そのうちのひとつから出てくるのは、避難民ではなく、無影の最後の軍勢だ。何人残るかさだかではないが、無影はひとりになっても撃って出てくるだろう。覚悟を決めてしまった無影を、慰撫《いぶ》する気は羅旋にはなかった。無影にとって、これ以上生き長らえることは苦痛でしかないにちがいない。大牙のように、人の下にはいってなお、屈辱を感じずに磊落《らいらく》に生きていける人間は稀《まれ》なのだとは、わかっていた。  淑夜もまた覚悟はしていたが、さすがにこの瞬間だけは、顔色が動いた。 「無影……」 「いったい、何故、こんなことになってしまったのだろうな」  無影の皮肉っぽい態度は、なかなか崩れなかった。昔はもう少し、おだやかな諦観《ていかん》に近かったものが、鋭い棘に変わって、もはや生得のもののようになっている。 「おまえが作る国が、〈衛〉よりも優れていたのは、何故だ。たかが、戎族と亡国の人間たちが寄り集まって作った国が」 「……優れているわけではないと思います」  淑夜は考えながら、低く応えた。 「〈琅〉はまだ、人の数も少ないし未開の地も多い。戎族との軋轢《あつれき》もあります。ただ、だからこそ、皆が切実に物事を考え、なんとかしようと思っています。なにより、身分が固定していない。人材を登用するために、特権を持った階層に気を使う必要がない——。大きな城市の内部は、道を一本つけかえるのにも苦労しますが、たとえば新都のように、何もない土地に新しい城市を建設する場合、そんな必要がない、そういうことだと思います。もちろん、それはそれで、たいへんな仕事になりますが」  淑夜の声は終始おちついていて、あの書簡のような熱っぽさは微塵《みじん》もなかった。だが、それだけに説得力があった。困難は十分承知の上で、それでも成し遂げようという決心がこめられていた。 「できると思っているのか」 「やってみます」 「文字も知らぬ庶民を国政に参与《さんよ》させて、どうにかなると?」 「どうにかします。〈衛〉や〈征〉とちがって、〈琅〉の戦の主力は騎馬兵です。身分も財産もない、私のような流民たちがいなければ、戦には勝てなかったんです。〈琅〉のために生命を張った者に報いるのは、当然でしょう。騎馬兵も弓兵も歩卒も、自分たちの意思が反映されると思えばこそ、〈琅〉のために働く気になれるのでしょうし」 「絵に描いたような理想だな」 「やってみる価値はあるでしょう」 「いつの間にか、口ばかり達者になった」 「あなたに似てきたといわれています」 「…………」  無影が憮然と沈黙するのと、羅旋の爆笑とが同時だった。 「——けっこうなことだ」  笑い続ける羅旋を横目でにらみつけながら、無影はつぶやいた。羅旋への敵意が、無影をすばやく立ち直らせたらしい。 「それだけ、大人になったということだ。これで女のひとりもできていれば、上等だな」  不器用な笑い方をして、無影がいった。それが冗談口だと気づいて、淑夜は目を見張った。生まれてこの方、無影が軽口《かるくち》の類《たぐい》を口にしたのを聞いたのは、これがはじめてだった。表情と同様に、ぎこちない冗談だった。 「この戦が終わったら、玉公主と——〈琅〉の先王の姪姫《めいひめ》と婚礼をあげることに決まっている」  声もあげられない淑夜にかわって、羅旋がこたえてやった。ほう、という顔を、無影はした。その表情を、淑夜は一生、忘れないだろうと思った。 「それはよかった。私が死ねば、耿《こう》家の血をひくのはおまえひとりになってしまう。正直、それを案じていたのだが——うまくやったものだな」  最後のひとことは、また冷ややかな口調にもどって、投げつけられた。だが、前半の口ぶりは、淑夜を義京へと送りだしてくれた時の無影のものだった。淑夜の口から、思ってもいなかったことばがとびだした。 「無影、ひとつだけ。仮定の話はしたくありませんが——もしも、私が義京へ行かず、ずっと〈衛〉にいたら……」 「答えようのない質問をするなといったのは、おまえの王だぞ」  無影は、氷の仮面をつけたように、もう何にも動じなかった。あっという間に心を閉ざしてしまった彼に、淑夜はつき放されたような気になった。羅旋がかたわらにいなければ、無影のもとにもどって彼のために戦うと叫びだしかねなかった。それをとどまらせたのは、 「行こう」  暁華をうながした、羅旋の声だった。 「おまえのできることは、みんな終わった。これ以上は、却《かえ》って無礼になる」  それは、淑夜にむかって告げられたことでもあった。背を向けて、出口にむかって歩きだした羅旋の後を、淑夜も追った。その後をさらに、暁華がためらいながら追いすがる。  羅旋は一度も振り向かなかった。暁華は三度ばかり、足を止め、肩越しに無影がたたずんでいるのを見た。だが、淑夜は、羅旋に倣《なら》ってまっすぐ前をむいたままだった。 「城外へ出よ」  香雲台《こううんだい》へもどった無影は、連姫の顔を見るなり、そう告げた。深夜、眠りもせず、細い油燈ひとつをともしたきりで、ひっそりと寝室で待っていた連姫にむけて投げつけられたのは、そのことばと厳しい視線だった。 「わたくしは、どこへも参りません。この八年の間、わたくしをしばりつけてこられたのは、陛下ではございませんか」 「もう、王ではない」 「呼び方は、関係ございません」 「尤夫人もすでに城外へ出た。ここで、おまえを守ってくれる者は、もう誰もいない」 「陛下が守ってくださるのでは、ございませんのか」 「——もう、それもできなくなった」 「勝手なことを、おっしゃらないでくださいませ!」  悲鳴に近い声が、あがった。  香雲台の人影は、さらに少なくなっていた。たとえ〈衛〉が敗れたとしても、羅旋が婦女子に危害を加えさせるとは思えないが、危険はなるべく避けたいと思うのだろう。  がらんとなった建物の内部に、連姫の声だけが響いた。彼女がこれほど声を張り上げたのは、これが初めてではないだろうか。無影は驚くよりも、困惑の表情で連姫を見おろした。  連姫は、変わらず美しかった。心労——ことにここひと月ほどに舐《な》めた苦痛でやつれはしていたが、それがかえって不思議な陰翳《いんえい》となっていた。どこか透明で、今にも消えてなくなりそうな印象が加わって、凄絶《せいぜつ》なほどの美しさになっていた。無影は無理に視線を引《ひ》き剥《は》がし、 「私はもともと、勝手な漢だ」 「勝手すぎます。こんなところで見放されるぐらいなら、昔、窓辺に花など置かれなければよかったのです」 「それを、だれに——」  いってから、無影ははっと口を閉じた。 「では……ほんとうでしたのね。陛下でしたのね」 「そうか、尤夫人か」  無影の口から、うめき声が洩《も》れた。連姫と彼の視線が、正面から合った。お互い、まっすぐに見つめあったのは、八年の間で何度あっただろう。いつも、どちらかが目をそむけ、背を向けあって生きてきた。素直にならなかった、暁華は無影を責めたが、それは連姫も同じことだ。無影の気持ちに気づきながら、意地から、無理にでも知らぬふりをした。 「もう……遅い」 「陛下!」 「知らぬ。花など、私に憶えはない。だれか別の人間だろう」  ふい、と無影の視線が逸《そ》れた。くるりと背が向けられる。その背が薄くなったことに、連姫はようやく気がついた。 「わたくしは、淑夜さまのことなど……」 「わかっている。とにかく、さっさと瀘丘を出よ。最後まで女を手放さなかったといわれては、私の恥になる」 「わたくしが……恥だとおっしゃいますか」 「誰か、誰かいないか」  連姫の声を無視して、無影は人を呼んだ。応じて現れたのは、班姑ひとりだけだった。一瞬、眉のあたりを心配そうにくもらせた無影だが、だれもいないよりはましだと思ったのだろう。 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》夫人を連れて、城を出よ。すぐにだ。抵抗するだろうが、かまわん、ひきずってでも連れ出せ」 「陛下——」  班姑は、すでに泣きじゃくっていて、声も出せないありさまだった。 「なにをしている。行かぬか。行かないなら、今すぐこの場で殺してやるが——」 「行きます。参ります。さ、お方さま——」  泣きながら、連姫を抱えるようにしてうながす。  一方、無影の方にも、百子遂から使いが来ていた。 「お支度を——とのことでございます」  まだ周囲は闇の中だが、夜の底が薄くなっていた。最後の一戦に出ていくためには、甲冑をまとったり、装備に手間がかかるのだ。  足早に出ていく無影を見る連姫の目には、一滴の涙もなかった。大きな目を見張って、じっと無影の姿を見つめていた。それから逃げるように顔をそむけた無影だが、たった一度だけ、思い切ないように振り向いた。  その時、連姫は班姑の肩に顔を埋めていた。あふれそうになる涙を、懸命にこらえるための仕草だったが、無影の目にはそれが、連姫の拒絶の意思に見えたのだ。  一瞬、息を止め、思い切るように吐き出した時には、無影ははじかれたように女たちに背を向けて、戸口にさしかかっていた。  やっと涙を抑えた連姫が顔を上げた時には、無影の後ろ姿が遠ざかるところだった。連姫の透明な涙も、無影の最初で最後の切ない表情も、ふたりは互いに、ついに見ることがなかったのだった。  無影の戦車の陪乗は、百子遂がつとめることになった。〈衛〉軍と呼べるのは、千人にも満たなくなっていた。それでも、人が残っただけましだと、無影は思った。士大夫の乗る戦車の数は少なく、歩卒ばかりが多い軍だった。 「万乗《ばんじょう》の君のはずの王が、このありさまか」  無影はこんな時にも、自分に皮肉を向けることをやめられなかった。乗とは、戦車の数を数える場合の数詞である。万乗とは、一万台の戦車を従えるべき存在という意味だ。一台の戦車について、甲士三人をふくめて七十五人の兵がつく。つまり、王の出征には、七十五万の軍が従うはずだった。  もっとも、実際問題としてそれだけの人口がまず、どの国にもない上に、軍を維持経営するためには莫大な額がかかる。どの国も——最盛を誇った建国期の〈魁〉でさえ、十五万程度の軍がやっとだったのだが。 〈奎〉伯国とぶつかった長泉《ちょうせん》の野の戦の時の、〈衛〉軍が五万。戦車の数は六百台を軽く越えていた。  それにくらべれば、二十台たらずの戦車というのは、たしかに寂しい。  その戦車の上から、 「皆に、礼をいう」  無影は静かな声で、ひとことだけ告げた。頭ひとつ下げるでなく、傲然と胸を張っての発言だったが、歩卒たちの中には、膝を折り感きわまったか、涙ぐむ者もいた。歩卒の多い軍だった。無影の政は、士大夫層にとっては都合の悪いものだったが、下層の庶民にとってはなにかしら、恩恵があったのだろう。  思えば〈征〉が連年のように戦をしていた間、〈衛〉の庶民たちは、戦で死ぬ心配をせずにすんだ。それだけでも、ありがたいと思われていたのかもしれない。無影の知らないことだったが、中には、自分の主が逃げてしまったにも関わらず、残留してこの最後の戦に加わった者もいた。名前もろくにない、無学な漢だったため記録には残らなかったが、それを知れば無影は、自分のやったこともまったく無駄ではなかったと笑ったかもしれない。  実際、彼は戦車の上で微笑したのだ。 「行け!」  微笑の後に、厳しい叱咤《しった》の声が響きわたった。  瀘丘の城壁には、都合、八つの門があるが、正門とされていたのは東の中央の門だった。その東央門が、大きく開け放たれた。その門の先に橋が降りる。さらにその先の、夜明けの最初の光の中に、戦車が整然と陣形を組んで待ちかまえているのを見て、また無影は莞爾《かんじ》と笑った。羅旋は、無影が出てくる門を正確に予測して、万全の構えで待っていたのだ。これは、敗残の兵を狩る戦ではない。王を相手にした、正々堂々とした戦なのだと、無言のうちに語ることによって、無影に対する最大級の礼を執って見せたのだ。  今度こそ、無影は軍の先頭にたった。百子遂が、危なげない手つきで手綱をあやつる。彼はすでに、伯父・百来の戦死を告げられていた。その伯父の遺言を果たすために、無影の戦車の陪乗をかって出たのだ。無影にしても、百来の戦車をあずかっていた経験に照らして、この一戦を安心して任せられるのは子遂しかなかった。 「よけいなことは考えるな。正面めがけて、一直線に進め!」  命じられて、子遂は馬たちを疾走させた。味方の軍から突出して、孤立するのは覚悟の上だ。無影は不安定な戦車の上に立って、右へ左へと矢を射分ける。その正確さは、戎族の騎射と大差ない。ただ、〈琅〉の歩卒のほとんどは、軽そうな籐《とう》製の盾を持っており、あまり大きな被害を出すことはできなかった。それでも、接近する者、進路を邪魔する者を遠ざける効果はあったらしい。 「ええい、面倒だ。退け、俺が相手をする」  前方から、大音声《だいおんじょう》が聞こえてきた。段大牙の声だと、すぐにわかった。声とともに、一直線に向かってくる馬がいた。手には、短めの槍を構えている。無影も、弓を捨てた。ちょうど矢が尽きたところだったのだ。もうひとりの陪乗から戈を受け取ると、斜め前方に向けて構える。武器の長さからいえば、無影の方が有利だった。  むろん、大牙もその点は十分に承知で、一撃目は、短槍で戈をたたき落とそうと狙ってきた。大牙が車の右側を走りぬけていった瞬間、無影は、戈を握りしめた手に激しい衝撃としびれを感じた。目がくらむような衝撃に、思わず取り落としそうになるが、懸命に踏みこたえる。 「陛下——!」  子遂の声に、 「反転するな。そのまままっすぐに進め!」  無影は、凜と命じた。大きく弧を描いて反転すれば、速度が落ちる上に、無防備な側面、背面を〈琅〉軍本体にさらすことになる。その危険よりは、とって返してくる大牙の背後からの攻撃の方が、防ぎやすい。無影は、車の進行方向に背をむけた。すでに、大牙は指呼の間に迫ってきている。  速度をあげて、戦車に追いすがり追い越そうとする大牙に向けて、再度、戈がふりまわされる。それを避けて、大牙は大回りをして車を追い越すと、はるか前方で馬首を立て直した。 「今度こそ、行くぞ!」  この間、〈琅〉軍からは一兵たりとも飛び出してこなかった。羅旋が、よけいな手出しをしないよう、即座に命令したらしい。その統制力に、無影は内心で舌を巻くと同時に、 (それを、後悔させてやる)  悪意からではなく、羅旋の配慮に応えるには、持てる力をすべて出してみせるしかないと思ったのだ。  大牙の馬が、加速してくる。同様に走る戦車の上から、無影は大牙の胸元の一点だけを凝視していた。戈の切っ先を、その点に合わせる。他は何も目に入らず、流れていく風景も見えなかった。大牙の胸が、戈の先に吸い寄せられるように迫ってくるのを自覚して、無影は、 (勝った……)  そう思った。  たしかに、戈は段大牙の軽い革の胴甲を貫いて、彼の身体に突きたった。だが、それは当初、狙っていた左胸からは大きくはずれ、右の肩口を刺したのだった。狙いが外れた原因は——。 「陛下!」  子遂の悲鳴を、無影は遠いざわめきのように聞いた。暗転していた視覚がおぼろげにもどった時、彼が見ていたのは、戦車の木枠だった。それも、奇妙な角度からの視界だ。それから、両手のぬるぬるとした湿った触覚。ゆるやかに痛覚がもどってようやく、無影は自分が負傷したことに気づいた。傷は、腹だった。金属の札《さね》を連ねた胴甲の、わずかな隙間から刃がはいったらしい。武器は見えなかったが、小さく深い傷口から、槍傷だとすぐわかった。 「陛下、なりません。立っては——」  子遂が懸命に制止する声が聞こえたが、手綱を握っている彼には、無影を止める方法はない。戦車の枠にすがって半身を起こし、かすむ目で周囲を見回す。  捜すものは、すぐ横にあった。乗り手をなくしてたたずむ馬と、その近くにうずくまる人影。それに駆けよってくる〈琅〉の兵たち。その手前に落ちて光る戈と、戦車のすぐかたわらにころがっている槍。 「そうか——投げたのか」  長さでは届かないと知った大牙は、無影の戦車をできるだけひきつけた上で、槍を投げつけてきたのだ。長槍なら無理だったろうが、柄の短い得物の上、大牙の腕力と騎馬の技術があったればこその技だった。結果、 「相討ちか……」  満足そうな微笑をうかべた無影だが、戦車の動きを察知したとたん、顔色を変えた。いや、その前から彼の顔面からは、血の気が急速にひいていたのだ。 「子遂、ならぬ。前へ——このまま〈琅〉軍中へ突っこめ!」 「嫌です」  子遂の口からは、思わぬ反応がもどった。実際、戦車は大きく弧を描き終えて、瀘丘の城門の方へと向かっている。 「ならぬ——私を、犬死にさせる気か。憶病者のように逃げたと、いわせる気か」 「もう、十分です。陛下は十分すぎるほど戦われました——」  子遂の声が湿っていた。もともと、無影は武人ではない。それが士大夫の義務だとはいえ、戦車に乗り武器をあやつるのは得手ではない。それを、ここまでやりぬいただけでも、立派なものだ。 「その上に、武勇で聞こえた段大牙と一騎撃ちの上で、相手を倒されました。これ以上、〈琅〉の恨みを買うことはありません。あとは、瀘丘城内で——」  このまま戦い続ければ、乱戦の中で名もない雑兵《ぞうひょう》の手にかかって首を掻かれることもある。それでは、一国の王としてあまりにも無残だ。生きる意志がないのなら、せめて王らしく威儀を正して、静かに——と、子遂はいったのだ。  それでも無影は、一度は歯ぎしりをして身を起こそうとしたが、失敗した。手足に力が入らない。その上、もうひとりの陪乗が子遂に合図されて、無影の身体にすがりついた。  無影はなおも抵抗したが、すぐにそれもむずかしくなった。制止していた漢は、やがて無影の身体を支える形になった。 〈琅〉からの追っ手はかからず、生き残っていた兵たちも一斉に、無影の戦車に従って瀘丘城内にはいる。時間にして、戦闘は半刻ほどもあっただろうか。  城門が閉じられ、集まってきた兵たちは、戦車の内部を染める色に息を呑んだ。だが、無影は自力で立ち上がってみせた。髪が乱れて、壮絶な姿だった。 「陛下、今すぐ手当を」 「要らぬ」  子遂の手を払い、泣きそうな顔でこちらを見つめる兵たちをひとりひとり見回して、無影は静かに告げた。 「もう、いい。これで、終わった。もう、だれも、私についてくるな」  ゆっくりと戦車を降りる。人の手を借りずに、歩一歩、歩きはじめる。足跡に、血が滴った。 「陛下——」 「来るな!」  激しい拒絶に、しんと静まった一同に、 「——戦は終わりだ。皆、降伏するがいい。ここまで戦った者には、淑夜が配慮してくれるだろう。私を——ひとりで死なせてくれ」 (本来、私ひとりで十分だったのだ) 〈衛〉という国を、人を、ここまでひきずった責任は、自分ひとりにあったのだから。  静寂の中から、すすり泣きがかすかにあがった。それを背中に聞かないふりをして、無影は王宮の中に入っていった。  無人の朝政の間を抜け、平常の執務室をぬけ、さらに回廊を渡り院子《にわ》をよこぎって背後の香雲台に入る。  なるべく、人がはいってこないところ、羅旋たちが入城してきたとしても、発見されるのに手間のかかる場所というと、傷の痛みに耐えながらでは、香雲台しか考えられなかったのだ。  香雲台も、とっくの昔に空になっているはずだった。だが、どこかから低く、人のすすり泣きが聞こえることに、無影は気づいた。  当初、空耳《そらみみ》かと思った。痛みによる幻聴《げんちょう》かとも思ったが、声は近づくにつれて確実に大きくなる。連姫——とちらりと思って、すぐに打ち消した。声は女のものだが、もっと低く太い。連姫の糸のような声とは、まったく違っていた。  揺れる身体を物でささえながら、ようやく奥部屋へたどりついたところで、無影は茫然とたちすくんでしまった。 「班姑《はんこ》では、ないか」 「陛下——陛下」  連姫を連れて城外へ出たはずの女が、声もなく、魂が抜けたように床に座りこんでいたのだった。無影の全身に、電撃が走った。 「まさか——!」  痛みも忘れて、奥の寝台に駆けよると、薄い羅《ら》の帳幕《とばり》をひきちぎるように開けた。そこに——。 「連姫……」  まるで、眠っているようだった。少なくとも外傷は見えなかった。肌の白さもそのまま、ただ、切れ長な目だけが夢を見ているように閉じられたまま、二度と無影を見ることはなかった。 「少し——ほんの少し、目をはなした隙に……」  何を飲んだか定かではないが、苦しみはなかったという。 「申しわけございません。申しわけ——」  詫びながらすがりついてきた班姑だが、無影の腹を染めるものに気づいて、はっと息を止める。 「陛下——」 「外へ出ろ」  突き放すように、無影は告げた。 「外へ——瀘丘は、滅んだ。……私たちだけにしてくれ」  寝台のかたわらに膝をつき、腕の中に頭を埋めた無影の口から、くぐもった声が出た。班姑が聞いたのは、それだけだった。女が彼の気迫にあとずさり、逃げていったのを、無影は見ていなかった。 「何故——」  何故、生きてくれなかったと叫びだしそうになるのを、無影は堪えた。彼が死を覚悟した時に、連姫も生きる意味を失ったのだ。そうさせたのは、自分だ。自分のことにせいいっぱいで、彼女に生きるだけの道を示してやらなかった。 「すまぬ」  はじめて、無影の口から転がり出た謝罪だった。最初で最後の涙が、ことばとともにあふれ出て、傷のある左頬を伝って落ちていった。 (だが、これで)  ふたりだけになった。最初から、こうすればよかったのだ。連姫をさらって、〈琅〉へでも逃げてしまえばよかったのだ。 「すまぬ。だが、今度は——生まれ変わったら、もう一度、おまえを好きになろう。その時は——」  その時は、自分の思いをはっきりと口にする。無影はそう、決心した。  瀘丘のすべての城門が、再び開かれたのはそれからまもなくのことだった。羅旋は、全軍を城外に待機させ、百人ほどの兵だけを連れて馬で乗りこんできた。東央門の正面に、百子遂が待っていた。降伏の口上を略させて、羅旋は、 「〈衛〉王は」  と訊いた。あくまで、無影を王として扱ったのだ。それに応えて、 「王宮にひとりで入られたままです。まだ、だれも内部は確認しておりません」  子遂の答えに太い眉を寄せた羅旋は、淑夜を呼んで、 「行くか」  とだけ、訊いた。淑夜は、無言でうなずき、馬を降りた。  兵の配置はともに来た徐夫余にまかせ、百子遂を道案内にたてる。途中、三人とも終始無言だったが、一度だけ、百子遂が、 「——段大牙どののごようすは」  と、低く訊ねた。羅旋も短く、 「命には別状ない」  答えると、安堵と無念さとが微妙にいりまじった嘆息をもらした。それに気づかない羅旋ではないが、当然の心情だと無視をしたために、それ以上の会話にはならなかった。  香雲台に続く回廊にさしかかったところで、淑夜が足を早めた。もどかしげに杖を動かす彼に、羅旋は何もいわず、道を譲ってやった。百子遂が目を見張ったが、こちらも何もいわない。  香雲台に部屋は多いが、淑夜は吸いよせられるようにまっすぐ、奥の部屋へ向かった。そこで目に入る光景を、彼はすでに覚悟していたようだった。粛然とたたずむ淑夜の肩越しにのぞきこんだ羅旋もまた、 「——やはり」  うめくようにつぶやき、しばらくは声もなくじっと見つめるだけだった。百子遂ひとりが、へなへなと床に崩れ落ち、顔を被って泣き出した。  眠るような連姫のかたわらに、無影もまたうつぶせとなって眠っているようだった。重い甲冑を取り軽装のまま、寝台に腰かけた姿勢から、上体を折るように、しかし連姫の身体にはかぶさらないように、身体を倒していた。ただ、その右手が、胸の上で組み合わされた連姫の手の上に遠慮がちに伸ばされていた。  どこかを突いたのだろうが、血の色はこうしているかぎり見えなかった。  最初に動いたのは、淑夜だった。  まだかすかに温《ぬく》みの残る無影の右手をとって、連姫の右手としっかりと結び合わせてやる。 「このまま、合葬してもらえますか」  低い、ちいさな声だった。  胸の内には、さまざまな想いが渦巻いていたのだろうが、少なくとも淑夜は外へは見せなかった。  羅旋も、しずかにひとつだけうなずいてやった。 「本望だろう」 「——簒奪者《さんだつしゃ》、と書かれるのでしょうね、史書には。主君を弑《しい》し義に背《そむ》いた独夫《どくふ》と」  淑夜のつぶやきに、子遂がはっと顔を上げた。 「敗者はそうなるものさ」  と、羅旋の口調もあくまで静かだ。羅旋が負けていれば、彼が〈琅〉を簒奪したといわれたにちがいない。勝敗を分けたのは、小さな偶然が重なっただけにすぎないのだ。 「憶えておいてやれ」  と、羅旋は続けた。 「この時代を作ったのは——新しい時代へのきっかけとなったのは、耿無影だと。だれが忘れても、おまえだけは憶えておいてやれ。奴が望むのは、きっとそれだけだろうから」  うなずく淑夜の頬に涙の跡があった。だが、羅旋をふりむいた彼の目はもう、ぬれてはいなかった。 「行きましょう」  頭を上げて、微笑しながら彼は子遂の肩に手をかけた。 「やらなければならないことが、山ほどあります。泣いている暇はない。さあ……」 [#改ページ]  終 章————————天涯地角 「淑夜《しゅくや》さま」  執務室の戸口にかろやかな声が聞こえて、淑夜はあわてて顔を上げた。 「揺珠《ようしゅ》どの、どうしました。なにか——」  部屋の中は、竹簡《ちくかん》を綴《つづ》ったもの、文字や図面を描いた布、紙の巻子や冊子など、種々雑多な書類や書籍で、足の踏み場もない。壁沿いには書籍を収める棚が並んでいるのだが、必要に応じて淑夜が手元にひきつけておくために、すぐに床は乱雑になってしまうのだ。  玉公主《ぎょくこうしゅ》の姿を確認して、淑夜はあわてて手近な巻子を片づけにかかる。揺珠も慣れたもので、微笑しながら、連れてきていた茱萸《しゅゆ》に手伝わせて、とりあえずふたりが座るだけの空間を確保した。衣装の上に羽織った白い麻を、ふわりとひるがえして座った揺珠と、あらためてむきあった淑夜は、 「何事か、起きましたか」  投げ出した左膝を気にしながら、訊ねた。〈衛〉との戦が終わってこの方、このふたりは始終、顔を合わせている。ただし、それは淑夜の仕事の邪魔にならないように、揺珠がいつも配慮していて、今回のように執務中に彼女の方から訪ねてくることはあまりないことだった。  訊ねておいてから、淑夜はすぐに揺珠の背後の茱萸の姿に気がついた。 「茱萸がいる——ということは、瀘丘《ろきゅう》からの使いですか」  ちなみに、ここは義京《ぎきょう》である。  瀘丘の戦の後、無影の簡素な葬儀を済ませて、羅旋はいったん義京へ引き上げたのだ。〈魁《かい》〉の王宮は見る影もなく、また再建する余力もないため、尤家のもとの屋敷を借り上げる形で本拠にしたのだ。瀘丘には、段大牙と徐夫余を残した。暁華も、家財の整理のために残っていて、当分は義京へはもどってこない予定である。  大牙は最後の無影との一騎撃ちの際、右肩の骨を折る重傷を負っていたのだ。 「生命はあったんだ、文句あるまい」  と、病床で、手当にあたった五叟老人にむかって胸を張る大牙を、 「とんでもない。無茶をするにも、ほどがある。助かったなら助かったで、おとなしく寝ていてほしい」  叱責《しっせき》したのは、身重の身で駆けつけた玻理《はり》だった。戦さえ終われば、彼女を安邑《あんゆう》に留めておく理由もないのだが、それで大牙は長い間、彼女を送り出した藺季子《りんきし》に文句をいっていたという。  だがそれも、半年も前のことだ。季節は冬を越して、春も過ぎかけている。大牙の怪我もそろそろ、癒えてきているはずだと安心しきっていた淑夜は、玻理に従って瀘丘に残ったはずの茱萸の姿に、悪い予感を覚えたのだ。彼にとって、瀘丘はまだ、悲痛な記憶のまつわる土地だった。だが、軽く腰を浮かしかける彼を、揺珠がやさしく制止した。 「違いますの。よい知らせですわ。茱萸、そなたの口から、ご報告なさい」 「はい。今月の十五日、玻理さまは無事にご出産なさいました。可愛い女の児《こ》です」 「そうか、生まれたか——」  ほっと、淑夜の顔に血の気が戻った。それを見て、揺珠も軽く安堵《あんど》の息をつく。 「ほんとうに、よろしゅうございました。大牙さまはたいへんなお慶《よろこ》びよう、とのこと。あれでは、将来、姫君の婿取りに難儀しそうだと、今から徐夫余どのが心配なさっているそうですわ」  揺珠のことばに、淑夜も思わず噴き出した。初児の前に手放しで喜んでいる大牙の姿が、目の前に見えるようだったからだ。 「苳児《とうじ》どのを大切にしておられたし、あれで、意外に孩子《こども》好きな人ですからね」 「でも、今から婚礼の話など……。あと、十五年は先の話ですわ」 「それは、普通の場合ならそうですが——大牙の場合、立派な王侯ですから……」  淑夜がいいかけると、それをさえぎるように揺珠はふりむいて、 「茱萸、まだ、他にも報告しなければならぬ方々がおいでなのではありませんか。陛下のところはよいとして、たとえば冀小狛《きしょうはく》将軍とか。でしたら、ここはかまいませんから、行っておいでなさい」 「はい。そのとおりです。では、おことばに甘えて、いってまいります」  侍女としてのことばづかいにも慣れた茱萸は、すらすらとふたりに礼をして、姿を消してしまった。それを見送り、完全に茱萸の姿が見えなくなるまで確認してから、 「殿方《とのがた》は、ほんとに……」  揺珠は困ったように微笑した。怒っていないことを確かめてから、 「何かまずいことでもいいましたか」  淑夜はおそるおそる訊ねた。揺珠は悪戯《いたずら》っぽく眉を上げると、 「……もう、取り沙汰《ざた》しておられる方がおいでですのよ」 「ですから、何を」 「陛下の、妃にと」 「——生まれたばかりの嬰児《えいじ》ですよ」  しばらく絶句したあげくに、ようやく揺珠のことばの意味を理解して、淑夜はあきれ声を上げてしまった。  要するに大牙の娘を、羅旋の正妃にしてはどうかというのだ。家柄としては、問題はない。まだ正式には決定していないが、大牙はいずれ、瀘丘周辺の地方の王号を称することになるだろう。以前の〈衛〉の版図に比べれば狭い範囲に限られるが、王にはかわりない。また、かつての〈奎《けい》〉伯家は、〈魁〉王家と姻戚《いんせき》でもあり、現在の〈琅〉の中では揺珠に継ぐ毛並みの良さを誇っている。門地血縁に因《よ》らず〈琅〉王となった羅旋の箔付《はくづ》けには、もってこいの人選ではある。だが、 「いくら、今の羅旋に浮いた話がないといっても」  相手は、まだ何もわからない嬰児である。しかも、親子以上の歳の差だ。王侯では珍しい話ではなく、現に揺珠も、嬰児のうちに〈魁〉王家に嫁いでいるが、 「ええ、他愛もない噂ですわ。でも、それに煽動されて、大牙さまに今のうちからとりいって、十数年後によい目をみようと思う方もおいでなのです。だから、うかつなことをおっしゃらないでくださいと申しあげているのですわ」 「まさか」  淑夜はあいた口がふさがらない。 「まさか、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]利器《しんりき》や漆離伯要《しつりはくよう》ではあるまいし」  口調が苦くなったのは、戦の過程で捕らえた漆離伯要らを、結局、〈琅〉軍内で処分せざるを得なかったからだ。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器については、だれもかばわなかったが、漆離伯要の処遇《しょぐう》は意見が別れた。当初、〈征〉に引き渡して、そちらで処分させるべきだという声もあったのだが、淑夜と大牙が反対したのだ。 「〈征〉に後始末を任せるのは、よくないと思います。わが軍にとっては、漆離伯要は問題なく敵ですが、〈征〉にとっては、ついこの間まで、自国の宰相であり王の師だったのです。新都の件で恨みがあるにせよ、さあ殺せとばかりに〈琅〉に押しつけられては、選択の余地はなくなります。それでは〈征〉の顔も立たないし、後々|禍根《かこん》を残す恐れがあります。また、任せるといって〈征〉に引き渡したとして、もしも〈征〉が彼を助命したらどうします」  助命したとしても、もう国政の場に登用することはないだろうが、それで安心するわけにはいかない。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》利器の例がある。伯要の才能は認めるが、一度人を裏切った人間は、それをくりかえす。危険な可能性は、できるだけ摘んでおく必要があると、淑夜が厳然と主張し、大牙がそれに全面的に賛成した。羅旋は、方子蘇《ほうしそ》らの意見もすべていわせた上で、漆離伯要の処刑に踏み切ったのだ。 「彼を惜しいと思っているなら、〈征〉から抗議が来るはずです。ですが、彼らとて、内心ではほっとしているはずです」  淑夜の予言どおりだった。  約束どおり、いったん退位した羅旋が、他の四相の推挙《すいきょ》を受けて再度、即位すると、〈征〉から祝いの使者として、禽不理《きんふり》が派遣されてきた。漆離伯要の処刑はそれより先に通知しておいたのだが、禽不理はついにそれにはひとことも触れなかった。それどころか、 「ものは相談でござるが——実は、先日の戦以来、新都に大勢の兵を駐留させておかねばならず、それがわが国には少々、負担になっておる」  新都はあの後も、〈征〉と〈琅〉が共同で統治する形になっている。禽不理は臨城《りんじょう》へもどって国政にあたり、廉亜武《れんあぶ》も巨鹿関《ころくかん》の修復にもどって、新都には代理の将が残っているだけだ。責任を持てる人間が不在のまま、帰趨《きすう》をめぐっての結論も、そのまま先のばしになっているのだ。 「ここだけの話だが、それなりの名分がたち、応分の代償さえいただけるなら、そして〈琅〉が望まれるなら、話し合いに応じてもよいと、わが王が申されておいでじゃ」  帰り際に、淑夜にひとこと、耳打ちしていったのだ。  むろん、〈征〉にしてみれば国力をそそいで建設した城市だ。惜しくないはずはないが、また新都を守るためには大勢の兵士と、彼らを養うための物資が必要だ。兵士というものは、基本的に戦のない時は、無為徒食《むいとしょく》の徒だが、現在の〈征〉には人を遊ばせておく余裕はない。  もちろん、〈琅〉もそれは同様なのだが、淑夜にはひとつ、案があった。 「新都の周囲は平坦な土地です。水利が悪く、農耕には向きませんが、馬なら問題ないでしょう」  しばらくは、馬を養い増やす場として利用し、余力ができれば、灌漑《かんがい》設備を作り開拓をして農地にする。その作業に、駐留している守備兵を交替であたらせれば、問題はほぼ解決できるだろう。その余力ができるのはいつだと、羅旋に訊かれた淑夜は、 「さあ、早くて五十年後ではないでしょうか」  答えて、絶句させたのだった。 「まだまだ、先は長いんですよ。たしかに〈衛〉の広大な版図《はんと》は、〈琅〉のものになりましたが、〈征〉はまだ健在です。今は幼主を抱え国力も疲弊しているからこそ、低姿勢をとってくれますが、たとえば穏健《おんけん》派の禽不理将軍が亡くなり、魚佩《ぎょはい》どのが成長した時、どんな風に国論が変わるかわかりません。ふたたび一戦を構えるだけの準備は、しておかなくてはならない。それには、馬をもっと増やして、できれば〈琅〉の全軍を騎馬軍にしてしまいたいんです。新都の周辺を農地にするのは、その後です」  次の戦が、いつ起きるか、予測がつかない。来年か、五年後か十年後か、それとも。ただ、五十年も経って何事もおきなければ、〈琅〉の支配が確立したと見ていいだろう。そうなれば、落ち着いて開拓をしてもさしつかえないと、淑夜はいったのだ。 「五十年後というと……俺は八十なかばか」  いって、羅旋は笑った。  五十代ですでに、老人とよばれるこの時代、八十歳といえば目のくらむような高齢だ。つまり、淑夜のいう五十年後とは、次の世代の話という意味でもあったのだ。むろん、その頃には淑夜自身、生きている保証などない。だが、と淑夜は思っているのだ。次の世代——できれば、孫の時代まで、約百年間を見据えた国の展望を作らなければ意味はない、と。 「気の長い話です。しかも、自分ではその成果は確かめられません。でも、国を作るということは、そういうことだと思います」  真剣に語る淑夜に、羅旋も素直に同意した。ただし、 「しかし——たとえ孫の世代までの設計は、うまくいったとしよう。だが、その先はどうする。どうせ気の長い話なら、二百年先のことも考えてやってもいいんじゃないか」 「そこまでは」  さすがに、淑夜も苦笑した。 「私も、想像がつきませんよ。私が責任をもてるのは、孫までです。顔も知らない子孫のことなど、知ったことじゃない。それに世の中は変わるものです。百年も経てば、どんな仕組みでも不都合が出てくるでしょう。そうなったら、その時代に生きている者が工夫をし、努力をすべきです。何世代も前の人間に責任をおしつけて安閑としている者たちに、生きる権利などないと思いますよ」  腐敗しない権力はない。国家が権力を持つ以上、どんな国でもいずれは腐敗する時がくる。それをできるだけ先に延ばす工夫はするが、永遠に続く国など、人の力では作れないと淑夜はいう。 「どんな国でも法でも、人が生きているかぎり、問題は起きます。それは、実情に合うよう、その都度変えていけばいいんです。小手先で変わらないなら、私たちのように力で変えていけばいい。私たちと同じ志を持つ者の出現を、否定しようとは思いませんし、それを禁止する資格も私にはありません」  羅旋が深くうなずいて、その場の会話は終わったのだった。  新都の代償には、北方諸国の旧領を充てようという方向で、交渉がゆっくりと進められている。遅くとも五年後には、新都を〈琅〉の国都にできるでしょうと、羅旋に告げて、また淑夜は絶句されている。 「ほんとうに、淑夜さまは急に気が長くなられました」  と、揺珠は笑うが、彼女との婚礼だけは来年の春と決まっている。去年の秋に叔父を失った揺珠は、一年の喪に服している。今、白麻の上衣を羽織っているのも、そのためだ。礼法で、慶事は春か夏に行うものと決まっているために、今年の春は見送らざるをえなかったが、義京にもどってからの淑夜は、国の新しい体制づくりのために忙殺されていたために、かえって延期は都合がよかったともいえる。 「——とにかく、いくら周囲が騒いでも、本人にその気がなければ、どうにもならないでしょう。どちらにしても、十五年も羅旋に独身でいられては困ります。大牙の姫君の成長は、待っていられませんよ」  淑夜が不機嫌な顔をしたのは、羅旋が自分の新しい立場にいっこうに無頓着《むとんちゃく》だという点にも、一因があったようだ。戦の最中は「王」と呼ばれはしても、実際には総指揮官として振舞えばよかった。羅旋にしてみれば、指揮下に入る員数が多くなっただけのことで、たいした変化はなかったのだが、これが平時となるとまったく話が違う。  どこへ行くにも人がついてくる、と、羅旋は淑夜に文句をいった。 「書類を読んで、玉璽《ぎょくじ》を押すことぐらいは俺にもできる。だが、仕事以外のことまでいちいち干渉されては、息が詰まる」  話がちがう、といいたいらしい。 「といっても、そのすべてが王としての仕事です。我慢するしかないでしょう。虚言《うそ》だと思ったら、大牙に訊ねてごらんになりますか。大牙はきちんとこなしていましたよ」  淑夜が平然と応じると、はっきりと恨めしそうな顔をした。 「せめて、一日のうちに一刻でいい。月芽《げつが》に乗る時間ぐらいはよこせ。でないと——」  逃げ出してやるということばを言外《げんがい》に置いたのは、さすがにそれ以上を口にしてしまうと、両者ともひっこみがつかなくなるとわかっていたのだろう。  淑夜の方にも、言い分はある。今のところ、羅旋の言動については以前のままで、礼儀作法からことばづかいまで、いっさい注文をつけていないのだ。本来なら、王は自称には王専用のことばを使用する。他の者とはっきりと差異化するためだ。「俺」などといわれては、王の威厳も尊厳もあったものではない。だが、急にすべてを変えても羅旋も、そして淑夜たちも対応しきれない。これも将来、すこしずつ改めていけばよいことだと、淑夜の方でもわざと態度を変えていない。  いずれ、羅旋が正妃を迎えれば、彼女への敬意というかたちで儀式やことばづかいを導入し、それを羅旋にも適応させていこうと淑夜は考えていた。後継者問題が、先々起きることも考えると、十年以上も待ってはいられない。大牙ももちろん、望んでなどいないだろうし、揺珠には悪いが、彼女の心配は取越し苦労というものだろう。  だが、揺珠の心配は、それで止まらなかった。 「もうひとつ、淑夜さまにはお訊きしたいことがございましたの。いい機会ですから」 「なんでしょう」 「大牙さまを〈衛〉王に封じられるというお話ですわ。他の四相の方も、左車さまも、順次、王号を称される予定だともうかがいました。でも、各地に王がいるのでは、以前とおなじことに、なりはしませんでしょうか。〈琅〉王と同格、その上、〈征〉王もおいでです。これでは——」 「意味がありませんか?」 「女のくせに、理屈っぽいとお思いでしょうが」 「いえ、むしろ、頼もしいかぎりです」  嫌味でなく、淑夜はそう思った。幼い時から政治の中枢にいて、しかもずっと傍観者でいなければならなかった揺珠は、女とはいえ、鋭い感覚を持っていた。巨鹿関で羅旋に同行を申し出た時の、情勢分析がそのいい例だ。あの時、揺珠が自分から同行を申し出、しかも最後まで音もあげずに陣中にとどまってくれたおかげで、羅旋たちは後顧の愁《うれ》いなく戦えた。  今後、揺珠は公の地位に就くことはないかわり、淑夜のもっとも身近な存在になる。淑夜としては、いつもそばにいる婦人が何もわからない女より、相談を聞き的確な助言をしてくれる女性の方がありがたいと思うのだ。 「では、逆におたずねしましょう」  と、淑夜はすこしいずまいを正した。 「大牙の件はさておいて、今、〈征〉王に王号を取り去れと、〈琅〉が要求したとします。〈征〉の回答は、容易に想像できると思いますが」 「はい」  当然、承知するはずがない。ことによれば、それから新たな戦が起きる可能性がある。 「〈征〉王を降格する権限が〈琅〉にない以上、この要求はとおりません。でも、実際には、現在、〈征〉は〈琅〉に一歩譲る立場です。それを名実、一致する形にするにはどうしたらいいと思います?」 「——ああ」  と、揺珠の容顔がほころんだ。思いあたったらしい。淑夜もうなずいて、 「そうです」 「大牙さまを〈衛〉王にするのは、このためなのですね」  大牙はまちがいなく、羅旋の臣だ。その臣を〈征〉王と同格に引き上げることで、両者への扱いを同等にしようというのだ。 「でも、それでは羅旋さまはどうなりますの。臣下の大牙さまと同格になってしまいましょう」 「では、その上の位を作ればいい」 「位を作る?」  揺珠があまり不思議そうな表情を見せたため、淑夜は噴き出すところだった。 「王という位もその他の身分も、しょせん人が作ったものですよ。王が不都合なら、別の呼び方を考えて、上位として扱えばいい」 「具体的には、どう申し上げればよろしいの?」 「まだ、羅旋にしか話していないことですが、たとえば」  いいながら、そのあたりに散乱していた紙をとり、隅に「皇」と書いた。 「まだ、いくつも候補はありますが、とりあえず」  大牙を王に封じる時に、同時に羅旋の呼称をも変えるつもりでいると、淑夜はいった。 「でも、淑夜さま。問題はそれだけではないと思うのですけれど」 「人を各地に封じる、ということでしょう。これでは〈魁〉と同じことだと。それはわかっています。だから瀘丘に徐夫余も残したんですよ。将来、王に封じた時点で、大牙には行政だけを任せます。軍は徐夫余に統括させて、命令は羅旋から直接出すようにします。さらに王を、定期的に移封するようにするつもりです」  つまり、軍事力を中央に直結させ、王の力を削っておくというのだ。これならば、王が中央の力を凌《しの》ぐ現象は、起きにくいだろう。 「王になった方が、納得いたしましょうか」 「〈征〉に対しては、当分は無理でしょう。でも、先例を作って徐々に慣らしていけば、次の代には問題なくなるでしょう。大牙と徐夫余を最初の組み合わせにしたのは、ふたりなら、自分たちの役割を承知した上で、よい先例になってくれると思ったからです」  なるほど、徐夫余は羅旋の命令には忠実な漢だし、大牙も自分の分をわきまえている。しかも、以前は〈征〉や〈琅〉と互角の戦をした王だった。それが羅旋の命令に従っているのに、他の者が逆らえば、それだけで討伐の大義名分として使える。〈征〉がその手の挑発にのってくれれば、それでもよい、おとなしく従ってくれるならなおいい、というのが、淑夜の構想だった。  これには揺珠も少し困惑したように、 「だんだん、お人が悪くなられるような気がします」  微苦笑をもらした。  淑夜はその程度ではもう、たじろがない。 「もっと、悪くなるかもしれませんよ。この先、人を登用する制度も、考えていかなければなりません。とりあえず、城市から有能と思われる人材を推薦《すいせん》させ、実務に就かせてようすを見た上で、登用するようにしてみるつもりです。その判定をする部署を設けるのに、さらに人材が必要ですし——」  いいつのりかけて、淑夜は自分で笑い出してしまった。 「すみません。一度にこんなことを話しても仕方がない。どうせ、一度には全部できないんです」  けっして彼は、気が長くなったわけでも、冷静になったわけでもない。前のめりになる気持ちを懸命に引きもどし、自分で自分をたしなめながら、進もうとしている。失敗は許されない。焦って失敗したら、また、あの乱戦の世がやってくるのだと、いい聞かせながら淑夜は自分にできる最大限の努力をしようと思っている。そしてたぶん、生き残った者たちは皆。 「……失礼いたします」  ためらいがちな声が、戸口の隅から聞こえた。 「例の物、一部ですが持ってまいりました」 「子遂どのですか。中へ——」  と、いう前に、内部から見えないところに平伏していた百子遂は、ちらりと中をうかがって首をすくめた。揺珠の姿を確認したのだろう。 「いえ、私はこれで——他の用事もございますから。ここに置いて行きますので、後でお目をお通しください」  紙の束を室内に押しこむと、そそくさと消えた。淑夜は、両手をつきながら慎重にたちあがると、その紙の束を大事そうにとりあげた。 「——それは、無影《むえい》さまの?」  見上げてくる揺珠の視線に、淑夜は無言でうなずく。  百子遂は瀘丘が陥ちたあと、後始末のために羅旋に協力し、そのまま義京に戻る時にも同行してきた。降伏したばかりで、まだそれほど高い地位にはつけられないが、ゆくゆくは羅旋の直属として、ある程度の軍勢をあずける予定だ。才気の点からいえば、徐夫余よりも劣るかもしれないが、真面目一途なところを評価されたのだ。それともうひとつ、 「あなたが見た無影のことを、なんでもいい、書いてくれませんか」  淑夜が頼んだのだ。 「いずれ、史書を編《あ》まねばなりません。でも、私にしろ他の者にしろ、あまりにも無影のことを知らない。それでは、不公平です。あなたが書いた、そのとおりに記すわけにはいかないと思いますが、〈衛〉人にとって、無影がどんな王だったか、正直な記録を残しておいてほしいのです」  文字は書けても文才はない子遂だったが、淑夜のことばには素直にうなずいた。伯父・百来《ひゃくらい》の最後のことばの意味を、彼はようやく悟ったのだ。そして、それを淑夜が生かしてくれることも。 「すぐに役立てられるものではありませんが——いずれ、必要になるでしょう」  史書を編む——それが、淑夜の仕事の最後のしめくくりになるはずだった。  揺珠はかるく微笑して、からかうように、 「国政の整備に、陛下の礼儀作法の指導に、正妃のご心配、人の登用に史書の編纂《へんさん》。五城大夫《ごじょうだゆう》さまは、ご多忙のようです。わたくしは、そろそろこれで——」  立ち上がる彼女に、あわてて淑夜が手を貸した。五城大夫とは、淑夜の別称である。むろん正式名ではなく、花名《あだな》だ。語源は、彼の身にかけられた懸賞である。彼の身と交換されたのは、最終的には八城だったのだが、「五城の懸賞首」が有名になりすぎていたのだ。義京にもどり羅旋の側近中の側近となった淑夜を、だれからともなく、そう呼ぶようになった。もっとも、正面きって呼べるのは、今のところ羅旋と揺珠ぐらいなものだったが。 「また、参ります」  するりと白い影が部屋を出たのと、院子《にわ》の方から明るい声が走りこんできたのとが、ほぼ同時だった。 「淑夜さま、超光《ちょうこう》を貸して」 「——苳児《とうじ》さま。どうして、ここへ?」  玻理に同行して瀘丘にとどまっているはずの苳児が、笑いながらそこに立っていたのだ。淑夜がおどろく顔を見て笑ったのは、揺珠だった。 「あら、お話ししませんでしたかしら。苳児さまは、大牙さまからの正使ですのよ。陛下への口上を苳児さまにお願いしている間に、茱萸を皆さまへのお知らせに回らせていましたの」  苳児はこの春、十二歳になった。背丈もずんと伸び、童髪を解いてひとつに結い上げるようになり、面差《おもざ》しはどことなく大人びてきた。あと、三年もすれば、一人前の婦人として、嫁ぎ先が取り沙汰されるようになるはずだが、今のところはまだ、ふるまいは六、七歳の頃とあまり変わらない。 「苳児さま、もう孩子《こども》ではないのですから」  淑夜も、一瞬、扱いに困った。 「超光をお貸しするのはかまいませんが、淑女が軽々しく馬になど乗るものではありませんよ」 「でも、玻理さまはどこへ行くのにも馬ですわ。それに揺珠さまは、馬に乗って、戦にまで行かれたではありませんか」 「だからといって。だいたい、超光に乗って、どこへ行かれます。供も連れずに、ひとりでお出しするわけには——」 「供なら、いるぞ」  と、低い声が後を追うように乱入してきて、淑夜はさらに呆れはてた。 「羅旋。あなたまで、なにを——」 「一日に一刻、月芽に乗る時間をくれるという約束だぞ」  苳児を名目にして抜け出すのだ、文句はあるまいと、得意そうに目顔で笑われて、淑夜は嘆息で応えるしかなかった。 「夕刻までには戻ってください。決済をお願いしたい仕事が、山のようにあります」 「わかっている」  どこまでわかっているのか、安請け合いをして羅旋は苳児を呼び寄せた。そのまま軽々と少女を抱えあげると、高い笑い声がわき起こった。 「苳児さまは、叔父上さまより、陛下の方がお気に入りのようですわね」  揺珠が声をかけると、 「ええ、好きよ。毎日、超光に乗せてくださるなら、ずっと義京にいてさしあげてもよろしいわ」 「それは好都合だ。苳児どのの供をすれば、俺が毎日でかけても、淑夜もうるさくいわなくなる」  淑夜をにらんでおいて、広い背中をこちらへ向ける。 「だれのせいです。好きでうるさくしていると思ってるんですか」  憮然とする淑夜の隣で、揺珠が鈴のような声をあげて笑った。  静かな——いくつもの戦をくぐりぬけてきたことが信じられないほど、平和な光景だった。  淑夜は数歩、階《きざはし》を降りてみた。よく晴れた午後だった。見上げた空は、うっすらと雲気がかかって、茫洋《ぼうよう》とひろがっていた。この天は南の〈衛〉に、西の安邑に、そして東の地にも北にもつながっている。その四方を静かに保っていくために、淑夜はこれからの時間を費やすことになる。  倒れていった人々のために、そして生き残った人のために。  天の限り、地の果てまで、こうやってしずかに笑って生きていけるように願いながら、淑夜は隣に寄り添った揺珠の手をとった。 [#改ページ]    あとがき  最終巻、お約束通りお届けします。自分でもまだ信じられませんが、どうやら書きたかったことは一応、全部書き切ったような気がします。  全八巻、枚数にして三千枚強は、世間さまの基準からいえばけっして長い方ではないでしょうが、私にとってはこれは最長記録です。着手した頃、自分にこんな長い、架空の物語が書けるのだろうかと、気が重くなったこともありました。しかも、その頃はまだ六巻構成で、中身ももっと単純だったのですが。そういえば、七巻目を書いている最中、さらにそれ以前の三巻構成の企画書の断片が出てきて、あまりの違いように目まいを起こしかけたことも(笑)。  最終巻までたどりついたこと自体、不思議でたまらない作者です。  足掛け七年の間には、いろんなアクシデントがありました。そろそろ時効だと思うので白状しますが、実はこの物語は当初、今は亡き大陸書房から出る予定でした。一巻目の原稿を渡して、装丁の相談をしていた時期に倒産。あやうく「幻の」作品になるところ、二日後に中央公論社から声をかけていただいて、即、スタートとなったわけです。だから、今、読むと実は一巻目だけ、少し言葉づかいが違っていたりします。  中公で刊行が始まってからも、担当さんが変わったりファンタジアへ移籍したり、一巻ごとに変化があったため「放浪癖のある原稿」と呼ばれた時期もありました。どうも、主人公たちの身の上にシンクロしていた節があり、彼らの立場が安定するにつれて、私の周囲も落ち着いていったのも、不思議といえば不思議です。  実のところ、物語の終わり方としては不満のある方がいらっしゃるかもしれません。宿題を山積したままでの完結です。でも、ゲームではないのだから、全国制覇して大団円という形にはしたくない、というのは、スタートした時から決めていたことでした。リアリティの追求(笑)というよりは、まず、十年足らずの間に一傭兵から身を起こすのは無理があると考えての結論でした。むろん、私の力量も考慮にいれての話です。結果としては、やはり正しかったと自負していますが、どんなものでしょう。  もっとも、誤算もいろいろとありました。一番は羅旋の処遇です。当初、彼はもっと即位を嫌がる予定でした。でも七年も経つうち、私の方が変わってしまいました。権勢欲のない自由人の羅旋にも魅力はありましたが、新しい時代を夢見た以上、引き受けた責任は全うする漢だと、私には思えたのでした。実際、そのシーンを書いてみたら、あまり抵抗しなかったのでそのままになってしまいました。ロマンスが少なかったのも誤算。ちゃんと仕組んでおいたはずの恋愛は、戦争の処理に手間取っている間に、どこかへふっとんでしまいました。淑夜と揺珠にしたところで、伏線はきちんと張ったのに、それがなかなか表に出てこず、最後になってあわててつじつまを合わせる始末です。  淑夜自身は、よくがんばってくれました。彼には、物語全体を見渡す「目」としての役目を背負わせたために、時々、事件の進行から姿を消して、影の薄い主人公といわれたものです。でも、作者の思考をよく整理して表現してくれたのも彼でした。彼の成長は、この物語の主眼のひとつでもありましたから、それは十分に応えてくれたと感謝してます。もっとも、あの人の悪さは予想外でしたけれど。 「実は」ついでにもうひとつ。実は段大牙は、最初の設定にはなかった人物でした。彼の描写にかかる一行前まで、作者は彼の存在をまったく知らなかったのです。気がついたら、そこに大きな顔をしていました(笑)。外見のイメージが羅旋に近かったため、しまったと思ったのですが、これほど重要な要素を占めてくれるとは予想外以上でした。進行過程で羅旋から削らざるを得なかった野性児の貌《かお》を、彼が後半、引き受けてくれたからこそ、物語はバランスがとれたのでしょう。とすると、彼の存在は必然だったはず。大牙抜きで、どうやって(特に後半を)書くつもりだったのか、今思うとぞっとします。物語の神さまがいるなら、感謝したい気分です(笑)。  とにかく、こうして「五王」は完結しました。書きながら、国とはなにか、権力とはなにかと、自分なりに考えさせられた仕事でした。人は何を信じられるのか、歴史とは何か、自分なりに考えた回答がこの作品だったような気がします。架空の物語でシミュレーションしたことを、歴史小説の方へフィードバックできたのも、思わぬ収穫でした。ほんとうに、学ぶことの多い仕事でした。  この物語は、私のファンタジー観の集大成でもありました。子供の頃から、私は「架空の国の歴史」を書くことに憧れ、いくつも設定しては挫折してきました。何故、完成できないのか、何が足りないのか、長い間考え続けてきたことを投入したのが、この物語です。何故、架空の歴史が書きたかったのかという答えも含めて、やりたかったことは全部やりきったつもりです。だから、今後、この手の架空歴史物語を書く可能性は低いと思います——というか、「こんなにたいへんな仕事は、二度とごめんだ」という淑夜の気持ちに、大賛成なだけですが(笑)。  なにはともあれ、七年の間、おつきあいいただきまして、ありがとうございましたと、読者のかたがたにも、登場人物たちにも、関係者各位にも申しあげます。「五王」は、周囲の方に恵まれた物語でもありました。アマチュア時代、私は小林さんの絵を見ては、こんな絵が似合う、血肉のきちんとあるキャラクターが書けるようになりたいと切望したものです。それができたかどうかはわかりませんが、でも今回、一緒に仕事ができて光栄でした。ご迷惑もかけましたが、これに懲りず、また機会がありましたらよろしくお願いいたします。それから、一巻目のあとがきで「また一緒に仕事を」と書いた、伊藤氏と林嬢。気がついたら、おふたりともこのノベルズの編集部にいました(笑)。伊藤氏には、実際に何巻か、担当もしていただいて、そういう意味でもこれは、幸せな物語だったと思います。むろん、後半、お世話になりっぱなしだった三浦嬢にも感謝を。  書きたいことはもっとあります。でも、きりがないので、このあたりで。  多謝、そして、また別の物語でお目にかかれますよう、再見。  一九九八年六月 [#地付き]井上祐美子 拝 [#改ページ] 底本 中央公論社 C★NOVELS Fantasia  五王戦国志《ごおうせんごくし》 8 ——天壌篇《てんじょうへん》  著者 井上《いのうえ》祐美子《ゆみこ》  1998年7月25日  初版発行  発行者——笠松 巌  発行所——中央公論社 [#地付き]2008年9月1日作成 hj [#改ページ] 修正  気づいていた→ 気づいていた。 置き換え文字 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 侠《※》 ※[#「にんべん+夾」、第3水準1-14-26]「にんべん+夾」、第3水準1-14-26 躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71 |※《しん》 ※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88